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コラムやエッセイは、有名な人が書くものである。でも、インターネットには無名な人たちの日記があふれていて、たまにそういうページに遭遇したりすると、けっこう面
白いものがあったりする。物を書く人と読む人の関係を、インターネットは確実に変えてしまった。
インターネットが変えたのは、書く人と読む人の関係だけじゃない。日記が典型だけど、そこに書かれた内容の多くは、すごくプライベートなことだったり、食べたものの話や買ったものの話だったりする。なんということもない内容なんだけど、そういうページをみてると、それを書いた人の心理を勝手に想像したりする。内容は問題じゃなくて、とにかく書いて、インターネットにさらしていないと、なんか落着かないんだろうか、という気がしてくる。それを読む人は、ごくごく限られた友達がほとんどであっても、けして読む人がそれに限定されているわけじゃなくて、全然知らない人が読むかもしれないけど、それもOKという感じがある。
たぶん、寂しいから書いているわけじゃないのだろう。パブリックでもなく、プライベートでもなく、その境界が曖昧になった中間的な場、それをインターネットは提供しているように思う。けして寂しいわけじゃないけれども、そのような場に書いてさらす心理、さらにいえば、そのような欲望の質が、ずっと気になっていた。
晶文社のAさんから、このコーナーで何か書いてみませんか、と声をかけられて、さて、何を書いたらいいものか、ずいぶんと考えあぐねた。この5年くらい、いわゆるテクニカル・ライターという仕事をしていて、コンピュータの専門家向けの本を翻訳したり、専門誌に原稿を書いたりしているのだけど、コラムやエッセイが書けるような有名人ではぜんぜんない。それに、好きなことを勝手に書くんだったら、自分のホームページで書けばいい。テーマの指定がなく、自由に書いていいとなると、逆に自由の刑に処せられたようで、気が重くなってくる。
プログラムの世界には、インターフェイスという概念がある。プログラム全体は、ある小さな部分の集まりとして構成されている。その個々の部分の内部と外部との間でのデータのやりとりを規定する出入口のことを、インターフェイスと呼んでいる。それで、インターフェイスというのは、部分の側から明示的に宣言する場合もあるにはあるが、全体の側から部分に対して課せられる規約である場合の方が多い。
このコーナーで、何を、どのように書くかは、いわばインターフェイスをどう設定するかの問題だといえる。さらにいえば、インターネットで何か物を書くというときに、冒頭に書いた個人ページの日記のようなものも含めて、さまざまなインターフェイスがありえるわけだが、それは、つまり、パブリックとプライベートの境界をどのようにインターフェイスとして設定するか、ということと同じことに思える。
それで、パブリックとプライベートの関係というのは、インターネットにおいてある種の変化が顕著なんだけど、それをもっと拡張して、思想的に把握できないだろうか。このように問題を設定したとき、フェミニズムというものがすごく気になっている。
なんでフェミニズムなのか、というと、フェミニズムが発見したジェンダーとかセクシュアリティという概念を無視して、パブリックとプライベートの関係を考えることはできないように思えるからである。
まったく、フェミニズムってやつは、困ったもんだ。ジェンダーとかセクシュアリティといった、日本語にならない小難しい用語を作ってくれたおかげで、いままで素朴に前提していた、男と女の違いが、えらく込み入った複雑なものになってしまった。とはいえ、パブリックとプライベートの境界が、どこで、どのように設定されるのかを考えるとき、セクシュアリティの問題が深く関わっているというフェミニズムの認識は、すごく重要な視点を与えてくれる。
むかし、学生のころに、吉本隆明の『共同幻想論』の読書会をやったことがある。角川文庫になった頃の話で、たしか中上健次が解説を書いていたはずだ。当時は、国家って何なんだろうということを考えるとき、『共同幻想論』を読んでおかないと話にならない、みたいな雰囲気があって、それで手にしてみたものの、内容はよくわからなかった。ただ、個幻想、対幻想、共同幻想という三つの区分は、ずっと頭にこびりついていた。個幻想は個人で、共同幻想は国家だとすると、対幻想って家族なのかな、とか考えたのだが、どうも、そのような単純な話ではなかったように思う。対幻想ってのが、どうもよくわからなかったのだ。ただ、国家を考えるときには、対幻想の背景にある性的欲望のことをよく考えなければいけないのだな、という風に理解していた。
『共同幻想論』は、個幻想から対幻想へ、そして対幻想から共同幻想へ、という論理展開で構成されていたように思うが、この論理展開は、たぶんヘーゲルの弁証法と関係がある気がしている。それで、ずっと対幻想を考えるときは、個幻想の次に対幻想を考えていたのだけど、最近読んだフェミニズムの本では、これがちょうど逆に展開してあって、目が開かれるような驚きを感じた。
その本では、パブリックな領域から排除されて、プライベートな領域に押し込まれるものとして、セクシュアリティを説明してあった。つまり、パブリックはセクシュアリティを排除したものとして成立する一方で、プライベートはセクシュアリティとの関係において成立する、という風に読める。
なるほどなあ、と感心しながら、しかし、よく納得できないところがあった。というのは、プライベートの成立とは、主体の成立、それも近代における主体の成立ということなんだけど、男である私は、そんなにセクシュアリティのことを考えたり、自覚したりしないでも、私という主体は存在しているように思ってきたからだ。
なんとなく、セクシュアリティって、ゲイやクィアや、レズビアンの問題であって、ヘテロな私には、どこか別
世界の話のように思えていた。さらにいえば、フェミニズムそのものが、女ではない私には、どうしたってコミットできない運動ではないのか。男がフェミニズムをいうって、なんか矛盾していないか、欺瞞じゃないのか、という思いが、ずっとあった。
いまは、とりあえず、こんな風に考えている。近代が終わって、ポスト近代になった。それに対応して、パブリックとプライベートの境界設定がゆらいでいる。このことは、主体とセクシュアリティの関係そのものも、ゆさぶっているのではないだろうか。
フェミニズムについては、それにコミットすることはできないとしても、フェミニズムの思想から影響を受けることはできると考えている。フェミニズムは、これまで男が男であることを自明と見なしてきた前提を疑わせるからだ。そんなわけで、ここでは、フェミニズムの思想が男に及ぼしうる影響や効果
について考えていきたい。
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