いやはや、ながらくのご無沙汰でした。みんな、ぼくのこと覚えてる? いいわけになるけど、なにしろ連載とか連載とか連載とか、断らずにいたら当然の如く、アッという間に締め切り多重債務状態となってしまって…。そうなるとつい、紙媒体の締め切りを優先せざるをえなくなり、これほどのブランクが空いてしまったというわけ。あんまり更新されないんで、なにか、この連載ってもう完結? みたいに思ってたひともいるみたいだけど、で、確かにもう少しで完結、ってところまで来てもいるんだけど、まだ大切な問題がいくつか残っている。今回を入れてあと3回ほど、取りこぼしてきた概念の説明をしなくちゃね。そう、正式な完結はまだちょっと先になります。
 さて、今回のテーマは「転移」だ。それも前編。なにしろ重要な問題なのでね。2回に分けて展開したい。
 そもそもいったい、人はなぜ、人を好きになったりするんだろうか。不思議に思ったことはないかな? 考えようによっては、ただ生き延びるだけなら愛は必要ない。たとえばぼくは、動物には人間のような愛は存在しないと考えている。動物には「馴れ」や本能に基づく愛着行動はあっても、いわゆる「愛」はない。それは「愛」が、言語能力や「死」の理解と結びついていることと関係があるかもしれない。
 愛の作用を脳の生理学や薬理学、あるいは遺伝学などの方法で説明しようとする学者さんは多いけれど、ぼくはそういうヒトの本は信じないことにしている。あの一世を風靡した「愛は4年で終わる」とか、「地図の読めない女」とか何とか、まああのへんの本だね。みるからにトンデモだった「ゲーム脳」から、いくらか誠実そうな装いの啓蒙書に至るまで、いろいろあるけど、ぼくに言わせれば、みんなドングリの背比べ。そんな本を書きたくなる欲望そのものを分析したくなるようなシロモノばかりだ。
 分析という点では同じだろうって? いやいや、そうじゃないんだな。ここで述べたような「愛の生物学」は、徹底して還元主義的だ。そこでは、どんな愛も、脳や遺伝子という、物質的な基盤に還元されて語られてしまう。そういう説明は、たぶん「男性が女性を好きである」理由については、もっともらしいことを雄弁に語ってくれるだろう。しかし残念ながら「ぼくがきみを好きなこと」の理由を知る手がかりには、ぜんぜんまったく、なりはしない。科学は、再現性のある現象の解釈や予測には圧倒的に強いけれど、一回しか起こらないような現象の分析には、てんで役に立たないんだ。
 そして「愛」という現象は、常にすでに、一回性のものでしかありえないんだね。
 おっと、ついうっかり「常にすでに」なんて常套句を使ってしまった。この言葉、ときどき目にすることがあると思うけど、これはなんというかな、「終わってからしか気付くことのできない、反復的かつ構造的な認識」を示すときに便利な言葉だ。愛とかトラウマなんかは、この「常にすでに」組だね。いっけん反復に見えるけど、実は必ず一回限りの現象。実は人の心は、そういう特別な要素から成り立っている(ついでに言えば「歴史」だってそうだ)。どんな手段を使っても、それらを実体として示すことは出来ない、それこそ「あるとしか言えない」もの。実体がないので、科学はそれを取り扱えない。しかし、そのような実体を持たない原因によってすら、人は病み、あるいは苦しむことがある。精神分析は、まずなによりも、このような対象を取り扱うための「技術」なんだね。
 だから精神分析家は、あくまでも分析の技術を通じて、愛と欲望の原因を求め続ける。その意味で、精神分析とは、あくまで比喩的に言うなら、欲望の物理学であると同時に、愛の化学であると言えるかもしれない。それが通常の自然科学と違うところは、精神分析の過程そのものが、およそ再現性に乏しい、一回限りの固有な体験であるからだ。
 ついでだから、ここでちょっと弁明をしておこう。ぼくは臨床で分析を治療に用いず、むしろ批評や評論といわれるような領域で分析的な発言をしているわけだけれど、これには理由がある。ぼくは一貫して、「リアリティ」に関心があるんだが、これこそ実態を示し得ないのに、あるとしか言えないような感覚だ。で、ぼくに言わせれば、精神分析の技術は、病気に限らず、リアリティの分析全般に応用がきく。治療には責任が伴うから、専門の教育を受けていないぼくが精神分析治療を直接に行うわけにはいかないけれど、批評への応用くらいは許されるだろう、というわけだ。
 閑話休題、「愛」に話を戻すこととしよう。フロイトは「われわれの治療は愛による治療である」と語った。おっと、だからといってフロイトを「医は仁術」のヒト、だなんて誤解しないでくれよ。余談だけどフロイトは、治療者はきっちりと診療報酬をもらうべきと主張した、「算術」の人だ。ここで「愛」が重視されているのは、一つにはその作用によって治療への抵抗を弱めることができるからだ。
 さて、第8回でも述べた通り、すべての愛の起源は自己愛だ。まずはじめに自己愛があり、それを延長したところに生ずるものが、他者への愛だ。こう言うと、「他人を大切にすると自分が得をする、という意味でしょ」とか、「他人を愛する自分がカワイイ、ってことでしょ」などと言いたがるお利口さんたちがいるけれども、それは単なる打算なのであって、ここでいう自己愛とは関係がない。自己愛から愛が育まれるというのは、もっと無意識のレヴェルで起こっている話なんだ。
 フロイトは日常語である「愛」じゃなくて、「惚れ込み」という言葉を使おうとしたようだけど、まあここでは話が複雑になるから、どちらでもいいとしよう。ただ、フロイトもラカンも、愛の起源を説明するのに、プラトンの「饗宴」を引用している。これはあとで、転移の説明にも使われるから、とっても重要なテキストだ。まずはこの中から、有名な「愛の起源」の話を紹介しよう。
 酒杯を重ねながら愛について賢人たちが語り合う宴で、喜劇作家アリストファネスはアンドロギュノス(両性具有)について演説する。それによると、大昔の人間は、現在の人間とは違っていた。手足が四本ずつあって、顔も二つあった。性別も二種類じゃなくて三種類あった。つまり、男同士、女同士、そして男と女の結合体だ。この、最後の組み合わせがアンドロギュノスというわけだ。あるとき人間たちは自惚れて、神々にたいして反乱を起こした。怒った神は、罰として、人間たちの体を真っ二つに裂いてしまった。このときから、人間は現在の形になり、また失われた片割れを求め続けるようになった。かつて男同士、あるいは女同士がくっついていた種族は、分裂してからは同性愛者となり、アンドロギュノスな異性愛者となったのだ。
 ここで「片割れを求める欲望」が、エロス的なものとして説明されている点に注意しよう。そう、愛の本質は性愛的なものであるという主張が、このエピソードをフロイトが引用した理由のひとつだ。おっと、だからといって、これは「しょせんはカラダ目当てなのね!」っていう話じゃないよ。ここでいうエロスっていうのは、セクシャルなものと同じくらい、メンタルな要因をはらんだ概念なんだから。もちろん自己愛だってエロティックなものだ。「自体愛 オートエロティシズム」なんていうくらいだし。
 さて、同じくエロスに関係がある愛のもうひとつの形式として、「転移」というものがある。「転移」のことは、きっと知っている人もたくさんいるだろう。カウンセリングを受けていて、患者が治療者に好感を抱いたり、恋愛感情を持ったりした場合、その感情を「転移」、より正確には「陽性転移」と呼ぶ。そう、転移には「陽性」と「陰性」があるんだよね。好意よりなら陽性転移、嫌悪に近ければ陰性転移、という具合に。ラカンによれば、それはこんなふうに説明される。陽性転移とは、分析家に対して優しい感情を持つこと、陰性転移とは、分析家に不信の目が向けられること。ここでラカンが「分析家を愛すること」とか「分析家を憎むこと」と書いていないのは、さすがに慧眼、という感じかな。
 実は「転移」こそは、精神分析の根幹をなすと言っていいくらい、超大切な概念だ。じゃあなんで、いままで取り上げなかったかって? 実は「転移」に関しては、ラカンはそれほど独創的な貢献をしていないんだね。いや、もちろん後でふれる「アガルマ」の話とか、有名なエピソードはあるにはある。でも、この概念については、やっぱりフロイトの貢献が圧倒的なんだ。このフロイトのオリジナリティの前では、ラカンの鋭い補足ですらも、さすがに小粒のものにみえてしまう感があるのは否めない。
 でも、これは本当に精神分析にとっては本質的な概念なので、一度きちんと説明しておこうと思ってはいたんだ。なにしろ最近の若い患者は、平気で「私、先生に転移しちゃったみたいで」とか言うからね。たしかに「治療者を好きになること」は転移感情には違いないけれど、でもそう単純な理解だけでは、ちょっと困る。
 転移というのは、ある種の人間関係の中で、相手に無意識の欲望が向けられ、現実化させられる現象を指している。それはしばしば、幼い頃の人間関係(親やきょうだいとの関係など)を、相手を変えて繰り返しているようにみえる。こういう関係は、やはり治療関係の中で起こりやすいんだけど、それに限ったことじゃない。後でふれるように、いろんな人間関係において「転移」は起こり、それはしばしば性愛として現実化する。
 第13回でちょっとふれた、「アンナ・O」っていう症例の話、覚えているかな。フロイトが精神分析を創始するきっかけとなったのは、彼女の存在があればこそだったんだけど、彼女の治療の時点で、すでに転移は大いに問題になっていたんだよね。最初の治療者だったブロイアーに転移した彼女は、想像妊娠したりとか、かなりいろんな症状を呈した。もともとはブロイアーの恋愛性の逆転移感情が原因でもあったんだけど、これですっかり引いてしまったブロイアー、奥さんを連れて子作り旅行に出掛けてしまった。要するに、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃったわけだ。
 後でも紹介するけど、転移の問題というのは、精神分析史の中では恥部と言っていいエピソードを沢山抱え込んでいる。でも、こういうスキャンダルが、精神分析の発展に与ってきたことも事実だから、何事もなかったように口を拭って済ますわけには行かないんだ。
 転移について重要なことは、それが単なる愛情や好意であることに留まらず、ある種の感情やイメージの反復であるということだ。それはしばしば、重要な家族に向けられた感情を、別の新しい対象に向け直しているに過ぎないことも多い。たとえば女性患者が男性治療者に転移する場合、そこで繰り返されているのは、父親や兄へと向けられた感情であるとされている。だから治療関係の中で転移感情が生じてきたときは、それがどういう理由で生じているかを、きちんと解釈しておく必要があるんだ。
 一般に、転移が起こってくると、病気の症状は改善する。まあ、これはわかりやすいよね。自分の恋愛感情が肯定されているときって、かなり強烈な安堵感が生まれやすい。そういう状況下で、問題がすべて解決したと思いこむことも可能になる。この状態を「転移性治癒」なんて言ったりする。つまり、ホントの意味の治癒とは違う、ってこと。まあ当然と言えば当然なわけで、こういう感情はニセモノとは言わないまでも、さっきも少し触れたように、昔の感情を反復しているだけ、ということになる。だから賞味期限が短くて、すぐにしぼんでしまったり、愛情が突然憎しみに変わってしまったりと、実にうつろいやすいんだね。
 治療の初心者は、患者さんに一生懸命に奉仕するから、こういう転移性の治癒を誘発しやすいし、それを本物の改善と錯覚しやすいんだけど、しばらく治療を続けていくにつれて、メッキがはげてがっかり、なんてことになりやすい。だから「転移」のことを深く知っておくことは、そういうぬか喜びを避けるためにも必要なことなんだ。
 いっぽう転移は、精神分析に対する強力な「抵抗」ももたらす。分析家は、この種の抵抗を適切な解釈によって乗り越えなければならない。転移は患者への接近を容易にするけれど、場合によっては最も強く接近を拒む要因にもなる。まさに両刃の剣なんだ。
 フロイトが転移のことを深く認識するきっかけになった事例としては、なんといっても「症例ドラ」が有名だ。当時18歳だったこのヒステリー患者を、フロイトは最後まで治療することができず、結局ドラの拒絶で治療は中断されてしまっている。このケースは、これ自体がすごく重要かつ面白いレポートなんで、興味のある人は是非原典を読んでみてほしい。なかなか複雑なケースなんだけど、ここではごく簡単に紹介しよう。
 ドラは裕福なユダヤ人家庭で育った少女。幼少期から呼吸困難や神経性の咳、抑うつなどのヒステリー症状に苦しんでいた。報告の主な登場人物は精力家の父親と目立たない母親、ここにドラがまだ小さい頃から一家と交際のあったK夫妻が加わる。あるときドラは、夫のK氏に散歩中に口説かれ、これを母親に訴えた。ところが当のK氏は、ドラが性的関心が強い少女なので、空想でそんな話をでっち上げたのだと言い張る。怒ったドラは父親にK夫妻とつきあうのをやめるように言うが、実は父親はK夫人と不倫関係にあったので、逆に娘を叱りつけ、フロイトのもとでの治療を勧めた…。いやはや、女性の側からみたら、ドラは完全に、男たちの勝手な欲望の犠牲者だね。でも、ここで残念なのは、フロイトまでもが、結果的に彼女の非をあげつらう側に立ってしまったことだ。
 ドラはフロイトとの治療場面で、父親とK夫人の関係を告発するんだけど、フロイトは夢分析などを通じて、ドラがひそかにK氏への欲望を持っていると解釈する。まあ、言い回しは専門的だったんだけど、結局はレイプの被害者に「でも、実はあなた自身もそれを望んでいたのでしょう?」って指摘するようなものだ。これはもう、解釈が正しいかどうか以前に、倫理的に間違った行為だね。今度ばかりはフロイトもセクハラ大将呼ばわりされても仕方ないかも。
 でも、ぼくはフロイトを「失敗の天才」と考えている。フロイトの報告事例は、どれもすっきりと治った事例ばかりじゃない。このドラなんて、あきらかに失敗例だ。ところがフロイトは、失敗の経験から、いくつもの画期的なアイディアを発想した。いやほんと、フロイト先生が癒し系の治療名人なんかじゃなくて良かったと思うよ。ドラには良い迷惑なんだけどさ。
 要するにフロイトは、この患者が自分に向けた転移感情を解釈しきれずに、治療に失敗してしまったというわけ。どういうことか。フロイトは失敗した治療を驚くほど謙虚に省みて、おそらくは正しい洞察に至っている。つまり、ドラはK氏に向けたものと同じ感情を、フロイトに向けたのだ。だからこそ、ドラはK氏に対してしたのと同じように、フロイトのもとを立ち去ることで、フロイトに復讐をしようとしたのだ。もしこの解釈を早い段階でドラに告げていたら、治療は新たな局面を迎えていただろう、とフロイトは書いている。
 このレポートには精神科医として、ぼくならこうする、というツッコミどころが一杯ある。ドラの態度にしても、転移感情とかまで持ち出さなくても、フロイトに対して「このセクハラ変態ロリコン親父は、もうしょうがねえなあ」とばかりに、さっさと見切りをつけて去っていったとみるべきなのかもしれない。でもね、やっぱり転移の問題は大切だ。この問題に無自覚なままでいると、治療者はいつの間にか、とんでもない加害者になってしまうことだってあるのだから。
 ドラの例からもわかるように、精神分析がなされる場っていうのは、いろんな欲望がゆきかうところだ。患者の欲望のことばっかり触れてきたけど、実は精神分析家の欲望のほうがもっと問題だったりする。あんまり触れたくない話だけど、でもそういうスキャンダルは多いんだよね、実際。アメリカの精神分析学会なんかでは、治療者と患者のセックスがずっと問題にされてきている。いや、それどころか、転移性恋愛の問題は精神分析の創世記から、精神分析家のもっとも脆弱な部分であり続けてきた。
 今回の締めくくりに、有名なスキャンダルを紹介しよう。主役は、カール・グスタフ・ユング。そう、元型やコンプレックスといった概念を発案し、箱庭療法や分析心理学の創始者という業績を残す一方で、錬金術やマンダラ、あるいはシンクロニシティといった概念を通じてオカルトファンも大量に味方に付けたあの精神分析家。毀誉褒貶はあれ、現在に至るまで大きな影響力をもたらしているユングを二〇世紀の偉人の一人に数えたとしても異論は少ないだろう。ところが、このユング氏、とんでもない影の顔を持っていた。
 ここからはあえて下世話な書き方をするから、ユング好きな人はご容赦を。彼は一夫多妻を提唱し、どうやら複数の患者と性的関係を持っていたらしい。「秘密のシンメトリー」(みすず書房)という本を読むと、そのあたりの事情が詳しく書いてある。
 「患者」の名前はザビーナ・シュピールライン。ロシアのお金持ちのユダヤ人家庭に生まれた彼女は、もともと想像力豊かな子供だったんだけど、いろいろな強迫観念に悩まされ、次第にうつ状態や錯乱状態などに陥ることも増えたため、十九歳の時にスイス・チューリッヒにあるブルクヘルツリ病院に入院して、若きユングの治療を受けた。ちなみに彼女は、たいへん頭も良かったので、チューリッヒ大学の医学部に入学し、ユングの指導の元で学位も取得し、精神科医になっている。
 ユング夫妻は当時すでに倦怠期だったらしいけど、ユング自身はいろんな意味で精力的な男性で、とりわけ女性患者を魅了する才能はずば抜けていた。妻のエンマが「女性患者は一人残らず夫に恋します(苦笑)」と言ったほどだ。そしてユングは、自分のそうした魅力を患者に対して隠したり、押さえたりしようとはしなかったんだ。だから患者と愛人関係になることについても、ためらったり悩んだりしなかったんだろうね。そうでもなければ、シュピールライン相手に「一夫多妻(ポリガミー)」を力説したり、自分の日記をこっそり見せたり、「ぼくってユダヤ女子萌えなんだよね(意訳)」なんてあからさまな口説き文句は出てこないはずだ。
 そもそも精神科医が患者に自分のプライヴァシーを打ち明けるっていうのは、親密な雰囲気を作るというタテマエはあるにしても、ときには転移誘発のための「口説きのテクニック」になる。その意味で、権力関係を背景にした恋愛関係って言うのは、そのほとんどが発端は転移性恋愛だ。こういう話は、なにも医師−患者関係に限ったことじゃない。アーティストとファンの関係、教師と教え子の関係、みんなそうだね。その全部が全部、ニセモノの愛情だなんて決めつけるつもりはないけれど、ちょっと羨望のこもったイヤミを言わせてもらえるなら「よっぽど釣り堀がお好きなんですね」とか言いたくもなる。ただ、こういう関係の中でも、やっぱり医師−患者関係の恋愛っていうのは倫理的にどうかと思うよ。その意味でユングが、自分の地位を利用して、患者という弱者を食いモノにしたと批判されても、仕方がないんじゃないかな。
 だってユングの後始末ときたら、てんでいさぎよくないんだものね。シュピールラインとの関係がバレて、彼女の両親がユングに娘の貞操を踏みにじらないでくれと手紙を出すんだけど、それに対するユングの返事が、ちょっと信じられないくらいひどい。
 「ボクはさあ、いままで彼女は友達だと思ったからタダで診てやったんだよね。でも、男女間の友情って、いつかは一線を越えるもんでしょ? 友達関係が駄目だって言うんなら、ボクの苦労への見返りとして、治療費を払ってもらわないと。あ、ちなみに一回の診察代は10フランなんで、よろしくね(大意)」
 …はい、完全に居直ってます。そもそもシュピールラインの母親は、金銭の謝礼代わりに贈り物はずっと送ってたんで、もうユング、弁護の余地は全然ありません。さすがに、この手紙にあきれた母親がチューリッヒまで会いに来て、そのあといろいろあって、ユングはブルクヘルツリ病院を辞めている。スキャンダルのせいかどうかはわからないけど、まったく無関係というわけでもないんだろうね。まあ、まだ長閑な時代だったから、それでもユングは偉人になれたけど、現代ならこの一件で学者生命は終わってただろうね。
 まあ、そういうわけで、精神分析の黎明期には、今でこそ有名なあのひとやこのひとなんかが、こういうトンデモ治療を平然と行っていたわけで。それでなくとも人の心を扱う職業は、わりと簡単に万能感を調達できるところがあって、こういう事態は決して過去のものじゃない。精神分析はそこに「転移」という限界設定をクサビのように打ち込んだ。ひとは万能じゃないからこそ、けっして転移から自由になれない。しかしその転移こそが、治療の必要条件なのだとしたら(ちなみにユングは、転移を必要不可欠なものとは考えていなかった)? 精神分析の営みは、治療者にある種の限界を突きつけながら、常に謙虚さを要求するような、倫理的営みにもなりうるだろう。この問題をラカンがどのように扱ったか、それは次回のお楽しみ。また半年先なんてことはないから(たぶん)、期待していてくれたまえ。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。