今回は、前回の「精神病」の話を受けて、「現実界」の話をしよう。どんな関係があるのかって? そうか、ちょっと間があいてしまったからね。おさらいもかねてまとめておくなら、ヒステリーや神経症の症状が「象徴界」に基盤を持つことと同じような意味で、「精神病」の基盤は「現実界」にある、ってことだ。いわゆる三界の話は、これまでも何度もしてきたから、だいたい大丈夫だよね?
 ただし、現実界というのは、ほかの「界」もそうだけど、あくまでもトポロジカルな位置づけしかできないことを忘れずにいてほしい。もっとも第6回では、たとえ話としてパソコンを持ち出してきて、現実界をハードウェアになぞらえたりしたけれど、あれはあくまでも比喩だから。もしホントにハードが現実界なら、パソコンの修理なんかできないことになっちゃうからね。
 僕はこの三界区分を、認識と行為の分類、あるいは区分として、とっても重宝している。でも、ある対象がどの「界」に属するか、なんてことを一義的に決めることはできない。じゃあ相対的か、といわれると、それもちょっと違う気もするけれど、まだそう考えてくれたほうがマシだ。もう一度説明しておくなら、認識したりコントロールしたりできる領域が想像界。精神分析の力を借りるなど、限られた状況下でなら認識・コントロールもある程度可能なのが象徴界。いかなる方法論を持ってしても、認識もコントロールも不可能な領域が現実界、ということになる。
 じゃあ僕らがふだん話している「現実」とは何か、ということになるけれど、それは多くの場合、想像的なスクリーンに映し出された「日常世界」のことを意味しているんだよ。だからよく「虚構と現実を混同して」なんて言い方があるけれど、ラカン的な立場からは、むしろ誰にとっても虚構と現実との間に明瞭な線引きなんかできないということになる。つまり、この「日常」だって、たまたま「リアリティ」を少々濃いめに割り当てられた「虚構」の一種、ということになるわけだね。そんな馬鹿な、現実は唯一絶対なものに決まっているじゃないか、と言いたい? でもね、それがあやふやだからこそ、僕らは虚構を虚構として楽しめるんだと思うよ。
 ちょっと脱線めくけど、芥川龍之介の『藪の中』っていう、有名な短編があるでしょう。あるいは映画で言えば黒澤明の『羅生門』のほうが通りが良いかな。こんな有名な話のあらすじを紹介するのも気が引けるけど、まあ簡単に記しておこう。平安時代、旅行中の夫婦を盗賊が襲い、盗賊はその妻をレイプして去るが、翌日その夫は遺体で発見され、妻の行方は判らなくなっていた。その後とらえられた盗賊、寺で懺悔した妻、巫女の口を借りて語る夫の霊と、三者の立場から事件の「真相」が語られるが、それぞれ内容がくいちがっていて、誰の話が本当かは最後までわからない。この傑作が評判になってからというもの、みなの言い分が食い違っていて何が本当か判らないような場合に「真相は藪の中である」という言い回しが慣用になった。
 この話は、それこそいろんな読み方が出来るけれど、精神分析にこと寄せて言うなら、まさに僕らが経験している「現実」、つまりここでは「日常という虚構」になるわけだけれど、その不確かさをリアルに示す寓話ということになる。日常もそうだし、あるいは人間の記憶だってそういうところがあるけれど、それらは語られたとたんに、そのつど虚構化してしまうんだね。以前も話したと思うけど、言葉で語るということは、それ自体が虚構化の手続きでもあるんだ。ある出来事を語る場合に、同じ現場に居合わせた人であっても微妙に話がずれてしまいがちなのは、語る人の数だけ「現実」が生じてしまうということを意味しているだろう。つまり僕らが経験していると思いこんでいる「現実」なるものも、その基盤となると、決して盤石ではないって言うこと。精神分析によるならば、僕らは言葉を介してしか、現実に近づくことが出来ない。「現実」を認識するには言葉が要る。「現実」を記憶するにも、それを誰かに伝達する際にも言葉、あるいはイメージが必要だ。そう言って良ければ、僕らの「現実」なるものは、常に言葉やイメージによって汚染されているってわけだ。こういうカギカッコつきの「現実」が、虚構としての「日常的現実」ってことになる。
 ほんとうの現実、つまり現実界というのは、ほかの想像界、象徴界の位置づけの後ではじめて成立するような、まさに不可能の領域を指している。だから現実界は、さまざまな形式で繰り返し語られることになる。そのことを象徴するような、ひとつのエピソードを紹介しよう。
 中沢新一という有名な宗教学者が、90年代初頭に発表したエッセイで、こんなことを書いた。「ぼくは、いっさいの幻想を、人間の意識からぬぐいさってしまいたいのかも知れない。世界の裸体は、ほんとうに美しい。その裸体を自分が所有したいとか、思い通りにしたいとか、思ったとたんに、裸の美女は消えてしまう。ぼくたちは、リアルとの、真実の性交を求めているのだ。」(『リアルであること』1994)。どうだろう。なかなか美しい文章じゃないだろうか。あまりよく考えずに読めば「ふむふむ、そういうものなのか」などと、つい納得して読んでしまいそうだ。
 ところがこの「リアル」の使い方に腹を立てた、あるラカン派精神分析家が中沢氏に噛みついた。彼の言い分はこうだ。人間は絶対に「リアル」に出会うことはできない。もしそれが可能になるとすれば、それは「死」の瞬間だけだ。精神分析家の役割は、クライアントに、こうした「生の現実との出会い」などありえない、という認識をしっかりと持ってもらうことにあるのだ。
 たしかに、このラカニアンの言い分は正しいというほかはない。僕も中沢新一氏の文章は、なんか能天気な印象が否定できない気がする。そりゃアジテーションとしては格好いいけど、じゃあどうやってその、リアルとの「真実の性交」とやらを実現すればいいの? と意地悪な質問をしたくなる。このエッセイが書かれてから10年近くなるわけだけれど、その方法が発見されたというウワサは聞かないし。
 ただ、ここで一方的に中沢新一氏だけを糾弾するのは、ちょっと気の毒な気もするんだよね。時代背景もあることだし。それに、たぶんこの二人は、同じことを違う言葉で言おうとしているだけなんだから。どっちも要するに「幻想にだまされるな」と言いたいわけでしょう。だから中沢氏は「リアル(現実)」という言葉じゃなくて「リアリティ(現実らしさ)」という言葉を使えば良かったんだと思う。ちなみにラカンも「リアル」と「リアリティ」を区別していて、「リアリティ」については「リアルのしかめっ面」なんて定義している。つまり、まるでリアルを認識したかのような感覚(錯覚だけどね)がリアリティと言うこと。ついでに言えば中沢氏のラカン引用は、その後も結構いい加減で、唐突に「ポケモンは対象aだ!」なんて言い出すから困る。というか、実は半分おもしろがってるんだけどね、僕は。
 それはともかく、ことほどさように、ラカニアンにとって現実界は超大切な概念なんだね。だから厳格なラカニアンの前では、うっかり「現実」とか言わないほうがいいよ。えんえんと現実界のレクチャーを聞かされることになるからね。ラカン自身も、現実界という言葉を自分が作り出したという自負が強くて、あるところではその「発明」を、フロイトによる無意識の発明になぞらえているほどだ。ラカンはこの言葉を、哲学や思想の領域から輸入してきたと言われている。たとえばラカンが影響を受けたとされているのは、エミール・マイエルソン、ヘーゲル、ハイデガーといった哲学者たちの言葉だったんだね。あるいは、ちょっと哲学をかじったひとなら、現実界からカントの「物自体」なんて言葉を連想したかもしれない。簡単に解説すると、カントは僕たちの感覚がすでに時間や空間といった形式に縛られているため、外の世界の存在をあるがままに認識することはできないと考えたわけだ。この、根本的に認識不可能でありながら、僕たちの感覚を刺激する存在こそが「物自体」だ。ね、かなり現実界に似てるよね? ふたりとも同じことを言っている。つまり現実(あるいは「物自体」)は確かに存在するけれど、僕たちが見たり感じたりしている通りのものではあり得ませんよ、ということだ。ただ、ラカンは感覚の形式のかわりに、言葉やイメージというものを想定して、それではとらえきれない領域に現実界を置いたわけだ。
 よく誤解されているみたいだけど、ラカンはけっして観念論者じゃない。つまり、この世の出来事は、すべて頭の中に生じた幻想に過ぎないというふうには考えていない。むしろラカンは唯物論者だ。これは厳密に言い出すと「シニフィアンの物質性」とか、なかなかややこしい話ではあるんだけど、ここでは強引にまとめてしまおう。ラカンは、現実の存在を肯定する。それは決して見ることも触れることもできないものだ。でも、現実はある。僕らは現実の存在から刺激を受けて、さまざまな幻想を見ることができるのだ。つまりラカンは、幻想の基盤としての現実を肯定するという意味における唯物論者なんだね。

 見ることも触ることもできないとはいえ、ラカンは現実界についていろいろと述べてはいる。ちょっと、それについてみてみよう。
 これまでにも何度か話してきたように、象徴界は「在−不在」の間から生じてきたという性質を持っている。つまり言葉(シニフィアン)は、存在の代理物なのだ。そうである以上、象徴界には根本的な欠如が刻まれている。つまり「あな」が空いているんだね。言葉に取り込むことができない領域、つまり現実界がそこからのぞいているような「あな」が。
 しかし、現実界は違う。そこには欠損や欠如はない。「現実界には亀裂はない」とラカンは言うけど、これは要するに、現実界って言うのは構造も持たない、一種の混沌というふうにもとれるね。混沌と言えば、中国の古典「荘子」に出てくる有名な話で「混沌、七穴に死す」ってのがある。南海の帝王と北海の帝王が中央の帝王である「混沌」に大変なもてなしをうけた。なにかお礼をしようという話になって、人間には食べたり見聞きしたりする七つの穴があるのに混沌にはない、せっかくだから穴をあけてやろうという話になった。二人がかりで毎日穴を一つずつあけてやったら、七日目に混沌は死んじゃった。とまあ、そういう恩を仇で返すようなひどい話で……いやそうじゃない、混沌に無理に秩序をあたえると、混沌が持っているエロスとかエネルギーが殺されてしまう、とここでは解釈しておこう。厳密には少し違うんだけど、この荘子の言うところの「混沌」とラカンの現実界とは、かなり近いかもしれない。つまり、言語化される前の未分化なカオス、というイメージね。逆に言えば、混沌とした現実に、切れ目を入れたり秩序づけたりするのは、まさに言葉の役目ということになる。そしてこのとき、どうしても言葉に取り込まれず、言語化に抵抗して、その外がわに逃れてしまう領域こそが現実界というわけだ。
(※註 ただし、ここで注意してほしいのは、ラカンのいう現実は、けっしてどろどろして不定型な得体の知れないものではない、ということだ。ラカン自身はヘーゲルなんかも引用しながら「現実界は計算と論理にしたがう」としている。もっともその「計算と論理」なるものがどんなものかは明確ではない。少なくとも、かなり複雑きわまりないものをイメージしていたことは確かだ)
 ところで荘子といえば、もっと有名な「胡蝶の夢」って話があるよね。ある暖かな春の一日、荘子がうたた寝をしていて夢を見た。夢の中で荘子は胡蝶となって花から花へと飛んだ。やがて夢の中の胡蝶は目を覚まして、荘子はふたたびわれにかえった。さて、荘子が胡蝶の夢を見たのか、胡蝶が荘子の夢を見たのか。この話も、現実界の理解には少しばかり役に立ちそうだ。これはまさに、さっき話したばかりの「日常的現実」の虚構性にかかわる話でもあるからだ。荘子か胡蝶かという問いには、誰も明瞭に答えることが出来ない。しかしそれは、現実が相対的だから、ではない。そもそも日常的現実があらかじめ虚構性を帯びていることを、この話はよく示している。問題は胡蝶と荘子の間にあるんだけど、その間の行き来を可能にしているものこそが、現実界なのだ。その意味で現実界とは、意識や無意識がスムーズに作動するための余白として、僕たちのこころに語ったり想像したりする自由を与えてくれている、と考えることもできる。これは構造主義なんかにつきものの「ゼロ記号」みたいな空白の位置と考えるなら、もう少しわかりやすくなるかな。
 この空白は、さっきちょっとふれた象徴界の「あな」にも該当する。ここに現実界を位置づけてもいいし、あるいは享楽なんかもここに所属することになるだろう(享楽については第14回参照)。で、これが実際にはどこにあるかというと、ちょっとややこしい。現実は主体の外側にあるに決まっているだろう、と言われそうだけど、必ずしもそうじゃないんだな。後で触れるトラウマや幻覚のような形で、「現実」や「享楽」は、主体の内面にも含まれることになる。いつも主体のそばにつきまとっているくせに、その外側とも内側ともいえない位置づけを持ってるんで、これを「外密」なんて言葉で表現したりすることもある。まあ、このへんは豆知識という感じで押さえといてほしい。

 さて、それでは実際に、現実界は精神現象のどんな場面で問題になるんだろうか。
 たとえば「トラウマ(心的外傷)」について考えてみよう。むかしなら神経症やヒステリー、いまはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の原因として知られる、あのトラウマだ。それが、すごく辛く耐え難い経験のことを意味していることは、みんな知っているよね。じゃあ、なんでトラウマが病気の原因になるんだろうか。
 ラカンによれば、それはきわめて現実的な体験だから、ということになる。もちろんラカンはそんな素朴な言い方はしない。彼一流のややこしい言い回しでいえば、トラウマという形式の中において、現実的対象との出会い損ねが反復される、ということになる。まあでも、ここは単純に理解しておこう。トラウマは、それがあまりにも現実的すぎるがために、いつでも強い不安を呼び覚ます体験のことだ。強烈すぎて、言葉やイメージにうまく吸収することができない。つまり「幻想」という安全な形で記憶できないわけだね。だからトラウマは、通常の記憶や思い出とはちがって、冷静に思い返したり、味わったりすることはできないんだ。
 それにしても、たった一度きりの体験が、病気まで引き起こすのはなぜか。不思議に思う人もいるだろうね。それはこういうわけだ。トラウマはまるで有毒な物質のように「こころ」に沈殿し、言葉やイメージの外側にとどまり続ける。そして「現実界は常に同じ場所に戻ってくる」というラカンの指摘どおり、トラウマも言葉やイメージを通じて、何度でも悪さを繰り返すんだね。これが「症状」という形であらわれる。たとえばPTSDには「フラッシュバック」という有名な症状がある。事故現場を目撃してそれがトラウマになっている人が、自分でも予想できないときに、事故のイメージがよみがえってきて苦しめられる症状だ。ここではトラウマが、イメージの回路を通って症状をひきおこしているわけだ。
 ここで注意してほしいのは、どんな体験がトラウマになり、それがさらにどんな症状に結びつくか、まったく予測がつかないということだ。こういう経験をしたらこんな性格になりますよといった「図式」は存在しない。精神分析をそういうことを言いたがる学問だと誤解しているひとも多いようだけど、このさい訂正しておこう。そういう安直なサイコミステリーも多いからなあ。言っておくけど、精神分析は、常に事後的な解釈、いいかえれば後知恵の技術なので、まったく予測には向かない。つまり、何か問題が起こってからしか、その力を発揮できないんだね。
 それはともかく、トラウマの現実性という話は、僕らの臨床現場での経験からも、かなりうなずける指摘だ。僕も日常的に「ひきこもり」だけじゃなくて、PTSDの患者さんを診察する機会がある。そういう経験から言いうることは、トラウマ的な体験にもいろんな程度があるということ。そして、その程度というのは、その体験を語りうるか否かで、ある程度判断できるように思う。たとえば「私はこんなトラウマで苦しんでいます」と、とっても具体的かつ詳細に語る人がいる。でも、こういう「語ることができるトラウマ」って、比較的軽いことが多いんだよね。語っているうちにどうでも良くなってくることさえある。問題なのは、語れないトラウマ。どうしても思い出せないという古典的な「抑圧」タイプから、それについて話そうとしただけでパニックや錯乱状態になってしまうようなPTSDタイプまであるけれど、重いトラウマ体験っていうのは、どうしても簡単には語れるもんじゃない。言い換えると、それを語れるようになるまでうまく導くのが、治療者の役目ということになる。
 だから、トラウマをなんとかしたいと考えている人に、間違っても「犬にかまれたと思って忘れなさい」なんてアドバイスをしてはいけない。それはトラウマという現実的な記憶を温存することにしかならないんだから。そうじゃなくて、トラウマと正面から向き合い、それについて語り、あるいは書くことで言語化し、さらに言えば、自分自身の人生の物語という形式の中にイメージとして取り込むこと。そうすることではじめて、トラウマを解毒することが可能になる。すごく乱暴な言い方だけど、臨床家としての僕は、そういう目標でトラウマの治療をすることが多い。でも僕の見たところ、トラウマの治療にはいろんなものがあるけれど、どれも基本は同じように思える。つまり、繰り返し思い出させることで、その毒性を薄めていこうとする点ではね。
 あと、これと似た話で、好きになった異性の顔を覚えられないという現象があるよね。それとも、今時の若者はそんな経験しないのかなあ。僕は中学生のころ、好きだった(もちろん片思いだ)女の子の顔がなかなか覚えられなくて苦労した記憶がある。恋心が強烈なほど、記憶があやふやになって焦ったものだ。不思議なことに、思いがさめるにつれて、記憶のピントもしっかり合うようになってきた。片思いとか恋愛とかも、一種のトラウマであり、現実との出会い損ねだからなのかな。え? うちの奥さんの顔ですか? もちろん今すぐ、隅々までくっきりと思い浮かべることができますとも。

 このほか、現実界が問題になる病気といえば、なんといっても「精神病」だ。精神病について、つまり統合失調症については、前回少しくわしく検討したよね。つまり、象徴界が機能不全におちいる病気として。象徴界が機能しないとどうなるか。そう、もう予測がつくよね。現実界が、もっといろんな形で悪さをするようになってくるんだ。
 これまでの連載を熱心に読んでくれた人にはわかると思うけど、象徴界が機能しないということは、去勢がうまくいかなかったということでもある。このことを難しく言うと、象徴的なものが「排除」されてしまっている、ということだ。でも、だからといって精神病者が言葉を喋れないというわけじゃない。むしろお喋りな患者だってたくさんいる。
 問題は、精神病者にとっての言葉の価値が、僕らとはかなりずれてしまいがちなことにある。たとえば僕たちにとって言葉は象徴に過ぎないけど、彼らにとっては言葉は、かなり現実的なものになるんだね(これは程度の問題もあるし、比喩的な言い回しでもあるから、そういうつもりで読んでほしい)。彼らにとって「言葉」とそれが「意味する物」とが同じ価値を持つことはしばしばある。だから彼らは、言葉を額面通りに受け止めがちだ。たとえば精神病者は、「ことわざ」の意味がわからなくなることが多い。それはことわざに大量に含まれている「隠喩」を、うまく解釈できなくなるからだ。同時に、いろんな場面で「文脈」を理解することが苦手になってくる。彼らがときどきとんちんかんなことを言ったりしたりするのは、そうしたことの理解力の低下が原因であることも多い。
 そのような意味で象徴界が排除された精神病者が、みんな発病するとは限らない。ちょっと挙動不審だけどいい人、くらいのキャラですんでしまう場合もある。そんな人でもある種の状況のもとにおかれると、精神病の症状が出現するとラカンは言う。それはどんな状況か? 父のシニフィアンを引き受けなければならないような状況、とラカンは言うけど、ちょっとわかりにくいね。簡単に言えば、責任のある大人として振る舞うことを要求される場面だ。言い換えるなら、他者からアイデンティティを問われるような場面。そうだなあ、就職とか結婚、出産や昇進なんかが、これにあたるかな。もちろん人それぞれだけど。そういう場面に立たされると、精神病者の主体は、あっけなく壊れてしまう。そして、排除されていた象徴的なものが、一挙に現実界にあらわれてくる。これがいわゆる「幻覚」ということになるようだ。ちなみに統合失調症の場合、幻覚といえば、ほとんど幻聴、つまり、その場にいない人の声が聞こえてきて、その声に支配されてしまうような症状を指している。
 精神病の症状として幻聴が多いっていうことは、かなり重要な事実だ。幻視、つまりまぼろしのイメージっていうのは、あんがい怖くない。それはまさに、自分の外側にイメージすることができるからだ。ところが幻聴は声だ。声というのは不思議なもので、外から聞こえるようで内側から自分を支配するような、まさにさっき述べた「外密」的な位置にあらわれやすいんだね。フロイトは「不気味なもの」について、慣れ親しんだイメージが一種の他者性を帯びて現れることとして記述しているけど、まさに幻聴こそ、不気味かつ恐るべき現実として、主体を脅かすってわけだ。
 なかなかきれいな説明だけど、でも、さすがにこのへんは眉唾かな。いつも強調しているとおり、僕自身はラカンの理論が精神病をきれいに説明しているとは思えない。やっぱり精神病はラカンだけでは手に負えないと思う。ただ、ある種のパラノイアとか、幻聴の出現するメカニズムなんかは、なかなか説得力があると思うから紹介したわけだけど。あと、象徴界の機能不全ってところについては、臨床家として深く納得している。ここだけの話、僕が統合失調症の診断をするときには、患者さんの言葉を一番重視しているくらいだ。
 さて、ここまでで現実界の説明は、ほぼ終わった。もちろん語り残しもたくさんあるけど、先を急がなければならない。というわけで、次回は三界の位置づけとボロメオの輪について、です。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。