前回ようやく女とヒステリーの問題をすませて、なんとか一息ついたかな、と一瞬だけ思った。ところが、そうも言っていられないことに気づいてしまった。「精神病」が残っていたのだ。今まで神経症、性的倒錯、と解説してきて、まだふれずに残っていたのがこの精神病ということになる。なぜこれだけが残っていたのか。簡単に言えば、精神病の問題こそは、ラカンにおける最大の鬼門だからなんだね。
 いや、もちろんラカンには、かつて大いなる期待がかけられてはいたんだ。つまり、それまで精神分析が決して接近し得なかった精神病に、ラカンの理論だけはアプローチできるんじゃないか、というね。実際、日本でもある時期まで、そういう期待から、さかんにラカンを援用した精神病論が語られたことがあった。80年代から90年代、精神医学業界内で、ちょっとした「ラカンバブル」が起こったんだね。いや、けっしてバカにしている訳じゃない。他人事みたいに言ってるけど、そのおかげで当時は医学生だった僕も、ラカンに関心を持つようになったんだからね。この当時、ラカンのセミネールがようやく翻訳されたり、ラカンの解説書や入門書が何冊も出版された。いまからみれば、ちょっと異常なほどの盛り上がりにも思えるけど、決してそれは無意味なことじゃなかった。
 ちょっと業界内部の事情を知らないひとにはわかりにくいと思うけれど、ここで精神病と呼ばれているのは、かつて精神分裂病と呼ばれ、いま統合失調症と名前の変わった病気をほぼ指しているといっていい。この病気、気がふれたひとをイメージするとしたらみんなが真っ先に思い浮かべるくらい、いわば狂気の代表格みたいな、かなりポピュラーな疾患だ。全世界的に分布していて、だいたい100人に1人はこの病気を持っているというくらい、ありふれた病気ではあるんだけど、いまだ原因不明。精神科医なら誰でもこの病気のことは良く知っているけれど、けっこうみんな、てんでな捉え方をしていて、説明を聞いても良くわからないかもしれない。体の病気みたいに、検査やなにかで目に見える形にできるような異常は何一つないので、みな自分のイメージで語るしかないんだね。
 でも、そういっただけじゃ、あんまり無責任だから、ここはひとつ、僕なりのイメージに基づいて簡単に説明しておこう。ああ、言っておくけど、この説明は精神医学事典なんかのそれとは、たぶんそんなに一致しないと思う。ただ、僕はこういうイメージを持ってこの病気を治療している、ということをはじめに説明しておきたいんだ。
 さて、問題の統合失調症だ。この名前、昔の名前である精神分裂病よりは、ずいぶん病気のイメージに忠実な名前と言うことができる。なぜかって? そもそも人間の心というのは、ひとつのまとまりに統合したがるという、強い傾向を持っているものなのだ。その統合が失調する。するとどうなるか。ひとつのまとまりへの志向が消えた結果、こころは大変な混乱に陥ってしまうんだね。たとえば自分の考えたことや行動が、自分のものであるという感覚が崩れてしまう。そうなると、自分の考えたことが、まるで誰かが喋っている声に聞こえたり(幻聴)、われ知らず独り言を喋っていたりするようになる。自分の行動も、それが自分の意志によるのじゃなくて、誰かに操られているような錯覚にとらわれたりする。あるいはまた、自分というものの境界がわからなくなって、考えたことが外にどんどん漏れてしまうように感じたり、逆に、他人の考えが自分の中に入り込んでくるように感じたりする。
 なかでも有名なのは「自明性の喪失」だ。これは、せんだって亡くなったドイツの精神病理学者、ブランケンブルクという人が指摘した「症状」だ。まあ、症状と言って良いかどうかは、むずかしいところだけれど。彼によれば、統合失調症では、僕たちが「当たり前」と思っている感覚がなくなるか、衰えてしまう。常識や知識がなくなるわけじゃないんだけど、その根底を支えている、もっとしっかりした土台みたいなものが崩れてしまうんだ。だから知識の問題というよりは、当たり前のことにまで懐疑が生まれてきて、身動きが出来なくなってしまう状態に近い。ほら、ムカデに「そんなたくさんの足で、どうやって歩けるのか」と尋ねたら、とたんに歩けなくなってしまったという笑い話があるでしょう。考えなければ当たり前に出来たことが、考えすぎると出来なくなってしまう。「自明性の喪失」っていうのは、こういう状態に近いと言えるかもしれない。
 たとえば統合失調症では、ぼくらが何気なく処理している日常生活の細かい部分が、ことごとく違和感に満ちた体験になってしまう。ひとに挨拶する場合でも、ただ「こんにちは」と言うべきか、あるいは「先日はどうも」「お久しぶり」「お元気ですか」などと付け加えるべきかどうか、そんなことが大問題になる。
 そういえば、みんな「ダブルバインド」って言葉、知っているよね。これはアメリカの人類学者(という枠には収まりきれない人だけど)、グレゴリー・ベイトソンが指摘した、有名な概念だね。たんなる「板挟み」と思っている人はいないかな? ベイトソンは、統合失調症の患者とその家族のコミュニケーションを観察するなかで、そこにある種のパターンが存在することに気づいたんだ。統合失調症の患者は、相手が「こちらへいらっしゃい」などと好意的な言葉を口にしながら、態度や表情が拒否的だったりすると、とたんに混乱してしまう。ぼくらはこういう場合、言葉よりも態度のほうをみて、「この相手には近寄らないようにしよう」とか判断するよね。でも、統合失調症患者は、どっちが本音なのか、どっちを重く見るべきか、すぐにわからなくなってしまうんだ。これも一種の、自明性の喪失と言っていいだろう。こういう混乱にとらわれると、患者はしばしば、石みたいに固まって一言も喋らなくなってしまう。これは「昏迷」という症状だ。はた目には何を考えているのかわからないけれど、このとき本人の意識は異常にはっきりしていて、後で聞いてみると記憶もしっかりしている。どうも一種の「金縛り」みたいになっているらしい。これなんかコンピュータでいえば、情報の入力過多でフリーズしてしまったような状況かな。「メモリがいっぱいです」という感じ。
 自明性の喪失もダブルバインドも、統合が失調したことから生じてくると考えられる。なぜなら、ここでそこなわれているのは、「文脈」だから。言われた言葉の意味を知識としては知っていても、文脈がわからなければ会話は成り立ちにくい。そして、人間の行動の大半は、実はこうした文脈にとことん依存しているんだ。前に別の本(『文脈病』青土社)で書いたことだけど、「文脈」っていうのは、言葉とちょうど反対の機能を持っている。文脈はものごとをつなぎあわせる連続性の感覚を意味するけれど、言葉は世界からものごとを切り出すための道具だ。おおざっぱな言い方になるけど、ものごとを切り離す言葉に、言葉をつなぐ文脈が組み合わされることで、はじめて「意味」が生まれてくるわけだ。
 だから、ひとまとまりの「世界の意味」を認識するには、言葉と文脈がどうしても欠かせない。ちなみに、「えもいわれぬ」とか「とうてい言葉には言い表せない」なんて形容は、だいたいそこになにがしかの「文脈の手応え」だけがあって、まだ言葉が追いつかないような「感じ」に対して使われるようだ。ただ、ここではわかりやすく単純化して書いたけれど、本当は文脈と言葉っていうのは、それぞれが独立して存在するようなものじゃないからね。言葉がないところに文脈はないし、文脈がないところでは言葉も機能しない。どっちも不可分の関係にあるわけだ。こころの「統合」というのは、こうした「文脈」のことでもあるんだな。文脈は、それがいつでも一つだけだからうまくいくので、しょっちゅう文脈が複数あったりしたら、やっぱり判断したり行動したりすることはむずかしくなるだろう。
 失調するような「統合」があるとして、それがどんなものかは判っているのかって? うん、もっともな質問だ。で、答えは「判らない」だ。心が統合を求めるとしても、それがいかなる統合であるのかは、少なくとも科学の視点からは、まったく判っていない。一つはっきり言えることは、それがぼくらの身体のように、はっきりした構造を持っていない、ってことくらいだ。輪郭もない。中心もない。ただ統合だけがある。そんなことがありうるのかって?
 ここで、ぜひとも「象徴界」のことを思い出してほしいな。象徴界というのは、言葉、もっと正確に言えばシニフィアンとして構造化されている。そう、そこにはある種の、確固たる構造があるんだ。ただ、それは簡単に地図や設計図が引けるような、わかりやすく目に見えるような構造じゃない。そうではなくて、むしろある種の秩序や計算式のように、抽象的なルールに基づいてなりたっている構造だ。いままでの連載を読んできてくれた人ならわかるよね。そう、こころを統合する構造とは、「象徴界」のことなんだ。
 象徴界は、ファルスを中心にして構造化された言葉のシステム。あらゆる言葉(=シニフィアン)は、隠喩という連鎖をつうじて、すべてこの「ファルス」という、究極の象徴に関係を持っている。いっておくけど、これはもちろん、とてもよくできた仮説に過ぎない。CTスキャンだの脳波だのを用いたって、ファルスの位置なんて科学的には検証できっこないんだから。でも、こんなふうに考えると、まとまりを持たないかのようなこころについて、ある種のまとまりを持ってイメージしやすくなってくる。
 ラカンは「精神病」(ここでは「統合失調症」とイコールと考えていい)について、象徴界が故障した状態と考えた。ラカンはこれを「父の名の排除」というふうに表現している。またちょっと、ややこしい話になってきたね。でも、ここはけっこう重要だから、しっかりと理解しておいてほしい。第6回で、ちょっと詳しくふれたことだけど、人間の象徴界ができあがるときに、エディプス・コンプレックスはすごく重要な役割を果たしている。パパ−ママ−ボクの三角関係は、こころがはじめて構造を持つうえで、決定的な役割を果たすわけだ。二者関係は構造をもたらさないけど、三者関係は構造につながるというのは、ほら、なんとなくわかるよね、カンで。で、精神病では、この構造が壊れてしまうというわけだ。
 これがどんな事態につながるか。象徴界が故障すると、まず「自分」を支える支点がなくなってしまう。これがさっきから言っている「統合の失調」をもたらすことになる。なぜって、自分の支えがなくなるということは、自分が向きあうべきひとまとまりの世界も、ほぼ同時に崩壊してしまうことを意味するからね。統合失調症の患者のなかには「世界没落体験」といって、いまにも世界の終わりがやって来そうな恐怖を訴えるひとが時々いるけれど、この体験こそ、象徴界の崩壊をそのまま意味しているのかもしれない。
 同じ病気でも、こういうところが「神経症」とは違うところだ。「神経症」では、症状がどんなに重くても、象徴界は正常に機能しているとされる。なにか症状が起こるとしても、それはたとえば「抑圧」によって押し込められた「トラウマ」が、別の場所に移動するから起こる。これ自体はむしろ、象徴界の正常な機能のひとつなんだね。ラカンが僕たち「健常者」も含めた人間一般のことを指して「神経症」呼ばわりするのも、こういう構造がみんなに共通しているからだ。そこで「主体」は、外の世界をことごとく象徴として、つまり言葉をつうじて体験する。体験は象徴として記憶され、ときには無意識に抑圧されたりもする。でも、どんなときでも自己の内−外の区別はしっかり保たれるから、不安や恐怖をどれだけ強く感じたとしても、簡単に幻覚や妄想が起こったりはしない。
 こころが簡単に壊れてしまわないのは、それが象徴界にしっかりと支えられ、保護されていればこそなんだ。前にも話したことだけど、人間は言葉を獲得することで、現実世界とじかにふれあうことは出来なくなってしまった。でも、それは悪いことばかりじゃない。現実にふれあうことは、ときにはすごく危険なことだから。たとえば、免疫を持たない人が人混みの中を歩いたりしたら、すぐ細菌に感染して、病気になっちゃうよね。現実に直接ふれたりしたら、こんなふうに、主体が現実によって破壊されてしまいかねない。このとき言葉は一種の免疫、つまりバリアーとなって、危険な現実から主体を保護してくれる。だから僕たちは安心して、現実の多様性を楽しむことができるってわけだ。そう、潜水艦の中から海の底の眺めを楽しむようにね。「統合」っていうのは、このバリアーのことでもある。
 象徴界が壊れたらこころの統合がそこなわれて、いろんな症状が出てくる。そこまではわかった。じゃあ、精神病患者の無意識はどうなるのか? ラカンによれば、もちろん精神病患者にも、無意識はある。ただ、うまく機能しなくなるんだ。これがいちばんよくあらわれているのは、なんといっても「夢」だね。一般的に、重い統合失調症の患者は「夢」をみなくなる。そして、回復するにつれて、夢の世界もふたたび豊かになってくる。これは有名な話で、僕も臨床現場でしょっちゅう経験してきたことだ。よく「臨床では使えない」などと非難されがちなラカンだけど、これなんか確かに、精神病では無意識が機能しにくくなっているんだなあと実感させてくれる事実だね。僕が臨床家としてラカンを信頼できるのは、こういうことがあるからだ。ほかのどんな理論が、この事実を整合的に説明できる? どうも今のところ、精神分析以外にはなさそうだ。

 今回は、精神病の解説に力が入りすぎて、現実界のことにまでふれる余裕がなくなってしまった。これについては、また次回に。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。