前回は対象aの話だったから、今回はそこからの発展で、フェティシズムについて考えてみたい。フェティシズムというのは、性的倒錯、つまりヘンタイ一般にかかわる問題だから、すごく大切だ。ヘンタイの多様性たるや、これがまたびっくりするほどのもので、いかに人間の欲望には際限がないかということを教えてくれる。
 もっとも、精神分析によるなら、人間は誰もがヘンタイ性を抱えていることになる。じゃあなんで、すべての人間がヘンタイじゃないかと言えば、一つには「去勢」を経験するからだ。この話題は、もう何度もふれてきたから、大丈夫だよね。さらに言えば、いろんな教育の過程の中で、僕たちは唯一の正しいセクシュアリティとしての「男女間の性愛」を刷り込まれる。教育といっても、性教育だけじゃないよ。僕たちが人生で最初に出会う性的な存在は両親だ。両親の正常な、つまりヘテロな性愛なくして、僕たちは生まれてくることすらできなかった。つまり両親のもとで養育されること自体がそのまま、まず第一の「教育=刷り込み」なんだ。ほかにも、漫画、テレビ、ゲーム、子供同士の会話など、「ヘテロな性愛の正しさ」と「それ以外のセクシュアリティの異常さ」を学ぶきっかけはいくらでもある。
 あんまりこういう言い方はしたくないけど、ヘテロな性愛ってのは、僕たちにとって、最も深いレヴェルで植え付けられたイデオロギーのようなものだ。言ってみれば、人類最古のイデオロギーだね。いや、だからどうだと言いたいわけじゃない。もちろん、人間の生物としての性別は染色体が決める。でも心理的な性別、つまり「ジェンダー」ってのは、人間が後天的に他者から受け取る属性なんだ。その起源たるや、言葉以上に古い。気が付けばどうしようもないほど、しっかりと植え込まれているのがジェンダーだ。そう簡単にコントロールできるようなものじゃない。だからこそ「性は幻想である」という相対化は、あまり意味がないし、無理に反抗してみても仕方ないんだね。まあ要するに、ここで僕が言いたいのは、ヘテロなセクシュアリティが唯一絶対の「健全さ」のめやすとは限らないってことだ。
 いや、それにしても、フェティシズムは奥が深いよ。「〜フェチ」という言い方、良く耳にするけど、いったんこの世界を覗き込むと、めまいがするほど多彩な欲望のサンプルを見ることができる。僕も門外漢だけど、今はネットを探れば、こういう情報は簡単に手にはいるからね。
 フェティシズムの対象といえば、いにしえからの定番は女性の下着とか、靴なんかが思い浮かぶだろう。ちょっと詳しい人なら、「ラバーフェチ」や「ウェット&メッシー」なんて世界もご存じかもしれない。蛇足ながら解説すると、ラバーフェチとは、ウェットスーツなどのゴム製のスーツを、時には顔まで覆い隠すほどぴったりと着用して、いろいろと楽しいことをするのが大好きな人たちのこと。ウェット&メッシーってのは、女性が衣服を着たままで、びっしょりと水や泥に濡れたり、食べ物などで汚れる様子を見るのが好きだという人のことだ。「イヤ! 変態!」と思った? でも、そういう人が世界中にたくさんいるのは事実なんだから、仕方ないよ。現実を直視しよう。
 このへんはまだ、本当のマニアの皆さんからみれば、初歩中の初歩と言うことになるだろう。こういう話はとっても面白いんで、いくらでもしたいところだけど、ここはヘンタイ学講座じゃないから、あとは簡単に済ませとこう。以下、僕が個人的に興味深いと感じたフェチをいくつか列挙してみる。そこで女性の方にはお願い。フェチの多くは、女性をモノとしてあつかうところから快感を得るものです。それゆえ、女性の立場から不愉快としか思えないフェチも登場するでしょうが、ここはひとつ大人になって、笑ってみのがしてください。こういう人たちはおおむね優しくて、もちろん合意に基づいて、世間の片隅でひっそりと趣味を追求しているだけなんですから。
 たとえば「風船フェチ」の人は、女性が巨大な風船と戯れるさまを眺めて楽しむ。「石化フェチ」は、映画やドラマで女性が石にされたり氷に閉じこめられたりして身動きがとれなくなるシーンが大好きだ。「小人フェチ」は、手のひらに乗るくらいの小さい女性じゃないと興奮できない。逆に「巨人フェチ」というのもある。これは巨大化した女性がビルを破壊するシーンなどをコラージュ画像で作成して鑑賞しあうらしい。このほか、いろんな映画の中の「女性が溶解するシーン」だけをピックアップして楽しむ人もいる。
 こういう話を聞かされると「バカだなあ……」と苦笑するのが一般的な反応だろう。でも、当事者達は真剣なのだ。理解されないことなど百も承知で、同好の仲間をつのり、工夫を凝らして愛好の輪を広げようとする。「好きなものは好きなんだから仕方ない」という言葉は、彼らにこそ似つかわしいね。ある意味、いちばん純粋に欲望を実践している人たちと言えるかもしれない。ヘテロな性愛は「恋愛」という虚構にすっかり汚染されちゃってるし、ほかにも打算やら経済やらの要因が入り込んでいて、とても純粋なものとは言えなくなってしまったからね。
 それにしても、この多様性たるや、何ともすごいとしか言いようがない。フェティッシュは文明とともに、どんどん複雑・多様化してきたし、これからもその傾向は加速して行くだろう。あるいはフェティシズムこそが、文明進化の鍵を握っていると考えることも可能かもしれない。もっと言えば、この多様なフェティシズムのありようこそが、精神分析の正当性を支持してくれる、強力な証拠なんだ。少なくとも、この嗜好の多彩さを遺伝子などで、目的論的に説明することはできないね。また同じように、脳内物質や認知科学と結びつけることにも無理があるだろう。だって、考えてごらん。遺伝学は「遺伝子フェチ」の存在を説明できないし、精神薬理学は「脳内物質フェチ」の存在を説明できない。しようとすれば「説明の説明」という無限循環に陥ってしまうだろう。ということで、この問題は「精神分析フェチ」の存在を説明できる精神分析でしか解明できないことになる。
 ほんらいフェティシズムという言葉は、18世紀の原始宗教に関する研究から広がったものだ。フェティッシュとは「未開人」があがめる「神の宿った呪物」を指している。19世紀になると、今度はマルクスがこの言葉を用いた。資本主義社会において、あらゆる物が、交換可能な使用価値を帯びる。そのような状況下でこそ、ただの紙切れにすぎない紙幣にも、何か一定の価値が備わっているかのような感覚が生まれてくる。この感覚が「フェティシズム」なのだ。そう、前回の連載を読んだ人は、ここでフェティッシュと対象aのつながりにぴんと来たんじゃないかな。
 そして19世紀末、精神科医フォン・クラフト−エビングが、この言葉を性倒錯のひとつとして使用した。つまり、ある特別な対象を使わないと性的に興奮できないという倒錯を「フェティシズム」と呼んだわけだね。フロイトは、この言葉をそのまま採用している。
 ひとはなぜ、フェティシストになるのか。フロイトはこう考えた。それは去勢に対するおそれからだ、と。去勢不安のことは、もう何度もふれてきたから、くわしい説明の必要はないね。つまり、一つは、自分のペニスが切り取られてしまうんじゃないかという恐怖。そして、ほとんど同じくらいの意味を持つのが、母親にはペニスがないことを発見する恐怖だ。繰り返し説明してきたように、この段階を卒業しないと、人間は人間になれない。少なくともラカンはそう考えた。しかし、そうは言っても去勢は怖い。出来ればなかったことにしたい。で、本当に「なかったことにする」態度を、フロイトは「否認」と呼んだ。そして、フェティシズムはこの「否認」から生まれると考えたんだ。
 否認というのは、あることがらを本当のところは認めつつも、表向きは否定してみせること。母親にペニスがないなんて恐ろしい光景、できれば見なかったことにしたい。だから子どもは、母親が下着を脱いで下半身があらわになった瞬間の光景じゃなくて、その一瞬前のシーンのほうにこだわる。つまり、母親がまだ下着をつけている情景にこだわるわけだ。そして、こういうこだわりを持ったまま大人になると、その人は「下着フェチ」になる。こういう説明が正しいかどうか、本当のところは僕には判らない。さすがに少しばかり、理に落ちすぎているという印象はある。まあ、こういうのが精神分析的な発想の典型だから、いちおう紹介しておこう。
 ここでのポイントは、否認があくまでも「イメージ」の否認でしかないということ。つまりここで「母親にはペニスがない」という事実は、象徴的には受け入れられている。にもかかわらず、「ペニスのない母親」という画像的なイメージは受け入れられない、ということだ。だからここには「分裂」がある。一方では「去勢」されたことを受け入れながらも、一方ではそれを否認したいという、無意識的な「分裂」。この分裂こそが、いろんな性倒錯の原因であるとフロイトは考えたのだ。
 さて、フェティシズムに話を戻そう。さっきの考え方を一歩進めるなら、母親にはペニスがあるかもしれないと思わせてくれるイメージがフェティッシュになりやすい、というふうに考えることもできる。だから、母親のペニスの身代わりになりそうなものは、すべてフェティッシュの価値を帯びることになるわけだ。
 ここですぐに思い出されるのが、「オタク」の存在だ。僕はかつて『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)という本を書いたことがある。これは、オタク達のフェティシズムをどう解釈するか、というテーマを扱った本でもあった。その内容はかなり複雑にして高度きわまりないので、ここでは省略する。でも、このフェティシズム論を応用すれば、問題解決は実に容易だ。つまり、オタクの人たちが大好きな戦闘美少女(「セーラームーン」とか「カードキャプターさくら」とかね)は、ペニス(戦闘能力)を持った母親の身代わりなんだ。もっとも、オタクは実生活ではごく当たり前のヘテロな性生活を送っていることが多い。なぜ虚構の中でだけそうしたキャラクターを愛好するのかについては、ぜひ僕の著書を読んでみてほしいな。
 話をオタクにまで広げると、フェティシズムの範囲もぐっと広がる。たとえば、さまざまなマニアも一種のフェティシストということになる。クルマ好き、バイク好き、オーディオ好きなどもフェティシストと考えることができる。ここで気づいた人も居ると思うけど、こういう分野って、基本的に男の世界だよね。オタク(「やおい」は除くとして)やマニア業界は、圧倒的に男性が多い。精神分析も、フェティシズムを含む倒錯傾向は、基本的に男に起こることだとしている。なぜだろう。これもやはり「去勢」と「分裂」に関係がありそうだ。
 男性は去勢された事実を受け入れつつも、それを本心では認めたくないという「分裂」を抱えている。つまり、母親にはペニスがないことは知っているけど、でも諦めきれない。それを認めてしまったら、自分のペニスも取られてしまうという「去勢不安」から逃れられないからだ。諦めきれなかった男はフェティシストになってしまい、フェティッシュという、母のペニスの代用品を求めつづける。しかし、女性の場合は、いささか事情が異なってくるんだね。女の子は、自分にも母親にもペニスがないことを発見しても、男の子のようなショックを受けたり、それを否認したりしない。むしろこの「事実」をあっさりと受け入れ、「ペニス羨望」を持つようになる。そして母親を軽蔑し、父親に愛情を向けはじめる。つまり、母親にペニスがないとしても、それが直接、不安につながったりしないんだ。ということは、男性のような「分裂」も生じにくいということになる。女性にフェティシストをはじめとする倒錯者が少ない事実を、精神分析はこんなふうに説明している。
 もちろん女性でも宝石などの装飾品好き、ブランド品好きの人は多いよね。でもこれは、男性のフェティシズムとはちょっと異なる。簡単に言えば、男性は多くの場合、フェティッシュの背後にある「機能」を重視する。潜在的な機能性は、否認された母親のペニスと同じものだ。いっぽう女性は、ブランドや宝石の背後に「関係性」をみる。だから、マニアは部屋に閉じこもってコレクションを眺めるだけでも満足できるけど、ブランド好きな女性は、ブランド品を購入する瞬間と他人に披露する瞬間にこそ、喜びを感ずるのだ。それはマニアの「所有の喜び」とは、ちょっと違ったものだろうね。
 ところで、今回かなり重要な役割をになっている「去勢の否認」は、ほかにもいろんな性倒錯の原因とみなされる傾向がある。たとえば男性のホモセクシュアル。これも母親の去勢を否認することが原因になると言われている。じゃあなぜ、おなじ否認なのに、ある人はフェティシストになり、ある人はホモセクシュアルになるのか。もちろんフロイトは、このあたりもちゃんと考えている。つまり「否認のやり方」が違うというのだ。母親にペニスがないことを、「ペニスの身代わり」で埋め合わせしようとするのがフェティシスト。で、自分自身が母親のペニスそのものになりきろうとすれば、その人はホモセクシュアルになるのだという。
 なぜかって? つまり、母親のペニスになろうとすることは、母親と同一化を試みるってことだ。そして母親に同一化すると、母親の立場に立って、母親と同じものを愛そうとするだろう。じゃあ母親が何を愛しているかと言えば、息子である自分自身だったりする。だから結果的に、この男性は、自分自身に良く似た対象、つまり同性を愛するようになる、というわけだ。うーん、やっぱり理が勝ちすぎている感じはあるけれど、こういう途方もない説明を徹底して考え抜くから、フロイトって天才なんだよねえ。
 ただ、精神分析が万能なわけではもちろんなくて、例えば「ロリコン」、つまりペドファイル(小児愛)の問題なんかは、あまりきちんと説明できないみたいだ。だいたい同性愛と同じような解釈になってしまうから。つまり、母親の愛の対象である「子供の自分」と似た対象を愛そうとする、というね。でもこれだと、少年愛までは説明できても、幼女を愛する男性については、うまく説明できないね。僕は小児愛というのは、もちろんいろんなタイプがあるだろうけれど、基本的にはフェティシズムの一つだと思っている。ただ、なぜ人がロリコンになるのかについては、うまく説明できない。それはほかのフェティッシュについても同じことだ。おそらくそこには、幼児期の記憶のみならず、「学習」も関係しているだろう。
 じゃあ「マザコン」はどうかって? それはご心配なく。ここまで読んでくれた人はお判りの通り、精神分析は基本的に「すべての男性はマザコンである」という視点から人間を理解する。だって、エディプス・コンプレックスなんかマザコンの典型でしょ。だから問題は、誰もがマザコンから出発するにしても、その後にどういう成熟を遂げるか、ということになってくるね。ところで、もう古い話題になるけど、かつて「冬彦さんブーム」なんかがあって、マザコンは良い印象を持たれていない。女性でマザコン男を良く言う人なんか、一人もいないだろうね。これにはいろんな理由が考えられるけど、あえて精神分析的に説明するなら、まさにマザコンこそが、あらゆる性倒錯の基本にあるからじゃないのかな。
 なんか今回、フロイトばっかりでラカン出てこないじゃん、と思った人も居たかもしれないね。ごめん。でも倒錯についての理論的基礎固めは、フロイトがほとんどしちゃったんだから仕方ない。ラカンはむしろ、フェティッシュのヴェール(覆い)としての作用に注目している。つまり、なぜひとは、あるものをじかに目の当たりにするよりも、覆われた状態のほうがリアルに感じるのか。「なぜ覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのか?」そう、フェティッシュというのは、とてもリアルな「現実の覆い」なんだよね。この問題もかなり面白いから、次回また論ずることにしよう。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。