しばらく想像界の話が続いたので、今回はちょっと流れを変えてみよう。
 ラカン、というよりも、ラカニアンの書いたものを読んでいると、よく目に付く言葉に「対象a」というものがある。ちなみにこれを「タイショウエー」と読んではいけない。「タイショウアー」と読むのが”通”だ。もっとも、完全フランス語読みで「オブジェプチター」とか読むのはやりすぎ。「a」はイタリック体じゃなきゃ、というこだわりも、ちょっとカルトくさいかな。まあ空気を読んで使おう。
 これもラカンが難解と思われる原因の一つなんだろうけどね、こういうナゾの言葉が出てくるのは。でも、ラカンを語る上では、やっぱりはずせない言葉なんだ。もっとも、外見の割には、そんなに難解な言葉じゃない。要するに「対象a」とは、「欲望の原因」のことだ。欲望については、これまで何度も触れてきたから、なんとなくイメージはつかめていると思う。つまり人間は、「本当の欲望の対象」をつかむことができない、ということ。簡単におさらいするなら、食欲のような欲求は、食事で満足させることができるけど、物欲や性欲のような「欲望」には、究極の満足はあり得ない、ということだったね。なぜなら、欲望はあくまでも言葉の作用によって後天的に生ずるものだから。
 「対象a」は、こういう欲望の「原因」といわれているもの。ちょっとここで注意して欲しいのは、「原因」と「目的」が違うってことだ。これ、混同されやすいから注意してね。人間は対象aそのものを目指すことはできない。ただ、人間が欲望を持つとき、そこには必ず、対象aの作用が働いている。じゃあいったい、対象aってのは、どんな「もの」なのか。
 まず言えること。それは「この世」の実在物じゃない。それはむしろ、「この世に客観的には存在していない」ことによって、僕らの欲望に作用する。「ない」ものが欲望の原因になるとは、どういうことか。第7回で、去勢のことについて説明したよね。あれをちょっと、思い出してほしい。そう、人間は去勢されることによって「人間」になる。「去勢の受け入れ」は、僕たちの主体に欠如をもたらす。そして、この欠如から欲望が生じてくるんだ。
 ここでちょっと寄り道。「移行対象」って、聞いたことある? これはイギリスのウィニコットという小児精神科医が言い出した概念で、子供が成長する過程で、なぜか手放そうとしない人形やタオルなんかをこう呼ぶ。ライナスの「安心毛布」みたいなものだ。大人と違って、子供にとって「対象」というのは、すごく特別な存在のことを指している。精神分析では、子供ははじめ幻想の世界の住人で、いろいろと学習を重ねながら幻想と現実を区別できるようになっていく、ととらえることが多い。そして移行対象っていうのは、ちょうど幻想と現実を橋渡しするような存在、子供にとっては自分の内面にあるとも外側にあるともいいにくい存在ということになる。だから大人から見れば、ただのボロ切れのような汚いタオルでも、子供にとっては友達のような、すごく特別な存在なんだ。それを捨てることができて初めて、子供は本当の意味で現実を生きるようになる。
 ラカンが対象aのアイディアを思いつくさいに、大きなヒントになったといわれるのが、この「移行対象」の概念だ。たしかに対象aも、現実とも幻想ともつかない曖昧さをはらんでいる。しかしそれでいて、人間の生き方に大きな影響を及ぼす。ただウィニコットは、子供がそれを手放す過程を重視したわけだけど、ラカンはそうしなかった。「対象a」の影響は、成長してからもずっと続くと考えたんだ。つまり、欲望の原因としてね。
 対象aは「小文字の他者」とも言われている。大文字の他者が「対象A」、すなわち象徴界のことだ。なんで「小文字」かっていうと、大文字ほどえらくないから。大文字の他者は、これはもう、どっからどうみても立派な、完璧な他者。でも小文字の他者である対象aは、「自我」と密接に結びついていて、ときどき入れ替わったりすることもある。つまり、対象aによって引きおこされた欲望は、しばしば自分自身に向いていることもあるんだね。
 対象aの、いちばん端的な例としては、やっぱり「お金」がいいかなあ。お金への欲望というのは、本当にきりがないからね。そして、この欲望は、あきらかに後天的に学習されたものだ。それが求められるのは、まさに僕たちにとってお金が「常に不足している」ため、「誰もが欲しがる」ために過ぎない。だって、お金という物質そのものには、大した価値があるわけじゃないんだから。紙幣なんて、ただの印刷した紙切れなワケだし。
 そんなお金が一番リアルに感じられるのは、なんといっても、それが欠乏しているときだ。手許に有り余っているときはそんなでもないけれど、足りないときほどその存在が強烈に意識される。借金なんかしようものなら、こんなリアルで恐ろしいものはないよ。下手すりゃ命にかかわるくらいだ。つまり、お金は「そこに存在しない」ときほどリアルな存在なんだね。
 たしか岩井克人さんが言ってたことだけど、お金については「実物の貨幣こそがヴァーチャルで、その概念のほうがリアル」なんだそうだ。身近な例では、たとえばコンビニで小銭を出しているときより、クレジットカードで買い物するときの方が、自分の経済状態がリアルに意識される。不在である時ほど、最も強い効果をもたらすことができる存在ということで、「お金」は万人にとっての「対象a」と言えるかもしれない。
 そして、お金が一番「対象a」に似ているところは、それこそが「欲望の原因」である、っていうところかな。え? おかしいって? 自分はお金のために働いているから、お金こそが究極の目的なんだって? いやいや、君が誰かの口真似をしているんじゃなくて、本当にリアルにそう感じているなら、別にそれに反対するつもりはないよ。ただ僕は、「お金のために」云々という、一見合理的な言い回しが、実は資本主義社会がもたらした最大の幻想の一つなんじゃないか、という疑いをどうしても捨てきれないんだ。
 自分自身の経験を例に取ってみよう。遅まきながら、今年のはじめ、ようやく「bk1」や「amazon」などのオンライン書店に登録した。なにしろ、あまりにも多忙で、書店をゆっくりと徘徊する時間もとれなくなったものでね。そうしたら、どうなったと思う? 登録した月から、僕の書籍購入額は、それまでの数倍以上に跳ね上がったんだ。暇だった大学院生時代にも、結構本は買っていたけど、そのときも上回る勢いだ。じゃあそれ全部読んだのかって? そんなワケないじゃん。僕の診察室に「本柱」が何本も林立するという、大変みっともない状況になっております。自宅にはもう置くところがないもので。
 まあ余談はともかく、なんで僕が、こういう誰にもありがちな体験を語っているかというと……そう、つまり僕の欲望は必ずしも「本が欲しい」だけじゃなくて、むしろ「購入しやすくなった」ことに起因していたってことが、非常に良くわかる話だから。ここでは欲望の対象である本の存在以上に、購買力の増大が本への欲望を生み出している。まあ僕の場合は、経済力よりはネットの利用環境が変わったことが大きいんだけどね。もちろん人によっては経済的に豊かになることが、購買力の上昇につながることも多いだろう。
 つまりこういうことだ。僕たちの欲望は、「欲しい物」、つまり目標が存在するから生まれるんじゃない。「欲しい物を金で(ネットで)買える」という可能性こそが、僕たちの欲望を生み出しているんだ。その意味では「もっとお金が欲しい」という言葉を、「もっと欲望が欲しい」と解釈することもできる。そして「欲望が欲しい」という欲望は、ほかの欲望となんら変わりない。その意味では、やはり人間の欲望にはきりがなく、それゆえに「貪欲」は罰を受けるべきなのかもしれない。ただしもちろん、ことはお金に限ったことじゃない。いろんな宗教や寓話などで貪欲が戒められているのは、基本的に人間の欲望には際限がないという真理が共有されていればこそだ。むしろ、ここで気をつけて欲しいのは、そういった教訓が決して「欲望を持つな」とは言っていないことだ。
 たとえばグリム童話に「星の金貨」っていうお話がある。まあ酒井法子の昔のドラマのほうを思い出してもらっても良いけどね。これは貧しい少女が、森で出会ったさまざまな子どもたちに、自分の所持品をすべて与えて、とうとう丸裸(!)になって満天の星を見上げたら、空から一斉に星が降ってきて金貨に変わった、というお話。これが美談であるためには、この少女が完全に無欲であってはいけない。金貨を適切に使用できる程度の欲望を持っている必要がある。そういえば、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」も、構造的には似た話だった。いずれの主人公も単に無欲であるばかりではなく、自己犠牲への欲望を持っている。そう、それもまた一つの欲望なんだ、精神分析的にはね。
 いや、そもそもこういう「無欲(欲望の少なさ)」や「自己犠牲」が、最高の報酬で報われるという寓話は、考えてみれば枚挙に暇がないくらいたくさんあるよね。むしろ寓話や童話の王道パターンでしょう。日本にも「舌切り雀」や「花咲かじいさん」「笠地蔵」など、有名なお話にはこの手の教訓が多い。「浦島太郎」のオチなんかも、ちょっとそんなところがある。
 ところで、こんなことを言うと「そうやって素朴なおとぎ話まで分析の言葉で汚そうとする」とか言って怒る人もいるけど、それは誤解ですよ。僕たちはべつに、価値判断をしたいワケじゃない。ただ可能な分析を試みているだけで、その回答があなたにとってリアリティがなければ、それまでのこと。僕たちは必ずしも「真理」や「正しさ」を求めているわけじゃないし、それを他人に押しつけるつもりもない。むしろリアリティのある幻想を求めていると考えてくれた方が、まだ近いかもしれないくらいだ。それと余談ながら、今回ひさしぶりに「星の金貨」だの「幸福の王子」だのを読み直してみたら、やっぱり泣けますね、こういう古典は。ええ、もちろん泣きながら分析しましたとも。
 閑話休題。これらの教訓が教えてくれるのは、象徴的な意味でのフェアプレーの精神だ。自己犠牲も、少ない欲望を持つことも、結果的には「象徴界」に、それなりのものを支払っていることを意味している。ということは、これらのお話は「支払ったものは報われる」ということが教訓になるか。でもそんなことを言えば、たいていの美談の構図は、こういう形におさまるよね。匿名での寄付とか、ボランティアとかね。つまり象徴界は、人間に無限の欲望をもたらすと同時に、あらゆる文化において、こうした自己犠牲的な「支払い」への欲望もセットで与えてくれるってわけだ。
 こういう利他的な行動を遺伝子だけで説明する人もいるけど、まだ塩基配列も特定されていないような仮想の遺伝子を持ち出して説明することは、はじめから実体のない「象徴界」による説明と、ほとんど同レヴェルだ。でも僕はそんな「情けは人のためならず遺伝子」の存在よりは、欠如によって効果をもたらす象徴界のほうがリアルに思えるなあ。
 例えば僕は、自己犠牲の物語に、それはもう無茶苦茶に弱い。宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」からアニメの「アイアン・ジャイアント」まで、この手の話はもう、思い出しただけで涙腺がゆるむ。わかっていても駄目だ。で、なんとか自己分析を試みるなら、結局これらの物語を支えているのは「反復」なんですね。報われない、トラウマ的環境にある主人公が、同じく報われない他者を自己犠牲によって救済することで、最終的に自分も救われる。象徴界を介して演じられる「救済」の反復が、それこそ反復によって色あせてしまわないのは、僕たち(あるいは僕個人)が、いつでも自分のことを「努力が報われない不遇な主体」としてイメージすることができるからかもしれない。ま、あくまでもイメージなんですがね。
 えー、例によって本題からそれつつあります。このへんで本筋に戻しましょう。多くの童話やおとぎ話で「対象a」にあたるのは、お金や物じゃない。それはつまり「永遠の幸福」と呼ばれるものだ。ほとんどのハッピーエンドは「いつまでも、幸せに暮らしました」で終わるけど、これも僕たちの幻想にありがちな形式の一つなんだね。もちろん「そんな幸せなんか、あるわけない」と否定してみせるのは簡単だ。たぶん「大人」なら、そうするだろう。じゃあなんで、ことさらにそんなことを言うのか。それは僕たちが本当は「いつまでも幸せに暮らす」可能性を信じたいからだ。だから、そういう信念のナイーブさを笑われて傷つく前に、自分で否定してみせる。でも、こういう身振りは、実は信念を強化してしまうほうに働くことが多いんだ。
 じゃあお前はどうなんだって? もちろん一般論としては、「永遠の幸福」なんかあり得ないですよ。でもひょっとしたら、僕一人だけなら、それは可能かもしれない……と、どうしても思ってしまうなあ。で、こういう考え方が、すでに僕自身が夢の領域に踏み込んでいる証拠だ。そう、もしあなたが「一般論」と「自分」を切り離して物事を考え始めたら、すでにあなたは「リアルな幻想」を見ている可能性が高いんだ。もっとも、多くの向上心が、こういう幻想に支えられていることを考えるなら、幻想だから良くない、とは単純には言えないんだけどね。
 こういう「自分だけは特別」という幻想に浸っているとき、人はすでに対象aの作用のもとにある。ある意味、現代くらい「自分は特別」幻想が強力な時代はなかったかもしれないね。じゃあ、ここでは何が「対象a」の位置にあるのか? それはおそらく「本当の自分」ってやつだろう。「『本当の自分』を探すことができる」という可能性が、「じぶん探し」やら「癒し」やらへの欲望や、「自分は特別」幻想を生み出しているんじゃないかな。こんなふうに対象aは、欲望の原因でもあると同時に、いろんな幻想を生み出す力もあわせ持っている。そもそも欲望と幻想とは、切っても切れない関係にあるわけだしね。だからたとえば、「リアリティのあるフィクション」は、どこかで対象aの力を借りているはずなんだ。あるいはブランド品。「たまごっち」から「ファービー」に至る、流行のオモチャ。こういった物への欲望にも、対象aの作用は働いている。
 ところで、去勢から生じた対象aは、けっして欲望の対象ではあり得ない。僕たちの欲望は、いつも対象aの周りをぐるぐる回りながら、けっして対象aそのものにたどり着くことはない。たとえば僕たちが恋愛しているとき。僕たちは恋人の外見ではなくて、心の美しさをしばしば賛美しようとする。このとき恋人がうちに秘めているはずの、謎めいた素晴らしい「心」の存在こそが「対象a」ということになる。ところが残念なことに、しばしばそういう「心」は存在しない。
 要するに対象aとは、ラカン派哲学者・ジジェクの言い回しを借りるなら、それ自体は空っぽなのに、あるいは空っぽであるがゆえに、そこに僕たちのいろんな幻想を投影することができるスクリーンみたいなものだ。「恋人の心」もそんなスクリーンなのだ。その意味では、対象aは、純粋な想像の産物でもないし、現実的な存在でもない。にもかかわらず、僕らの幻想において中心的な位置を占め、その完全なイメージを持つことはむずかしい。それは、いわば三界(想像、象徴、現実)が接しあうような境界に位置づけられていて、どこにもきちんと属さないかわりに、それぞれの特徴を少しずつ併せ持っている。僕たちが自分を語るとき、どうしても語りきれずに残ってしまうもの。現実を象徴化し尽くそうとこころみても、どうしても取りこぼしてしまう現実の尻尾。ラカンは対象aの概念を洗練していくときに、マルクスの「剰余価値」概念をヒントにしたらしい。そう、対象aはいつでも、いろんな意味で「余り」の位置におかれているのだ。
 そんなわけで対象aは、神経症者にとっては隠蔽されており、性的倒錯者にとっては客観的に示されており、精神病者にとっては実体化されることになる。ここは、ちょっとわかりにくいかな。ラカンによれば、僕たちはみな神経症者ということになるわけだけど、当の僕たち自身は、ふだん自分の欲望の原因については忘れて暮らしている。つまり、そこでは対象aが隠蔽されている。倒錯者については、たとえばフェティシストは、自分の本当に欲しいものが良くわかっている。だから下着なら下着、靴なら靴を、自分自身の欲望の根拠あるいは目標として、他人にも説明することができる。じゃあ、精神病ではどうか。とくに統合失調症(ex.分裂病)がそうなんだけど、彼らは幻想と現実との区別が、通常から見るとちょっとずれている。だからこそ、その場に居ない人の声までも、ありありと聴き取ってしまうことができるんだ。ただし、この能力は、精神医学的には「幻聴」と呼ばれる症状になってしまう。
 さて、もういちど寓話の世界に戻ろう。もしもこの世に「幸せの青い鳥」が存在するならば、その存在を知ることで、「青い鳥」への欲望が生まれるだろうことは、容易に予想がつくよね。このとき「青い鳥」は対象aの位置にあるわけだけど、メーテルリンクの童話が教えてくれることは、青い鳥は捜しても決して見つからないということ。そして、捜すのをやめたときに、初めて見つかるような対象であることだ。そう、たくさんの童話や寓話は、自分の欲望の原因を探すための秘訣について、共通の教訓をもたらしてくれるだろう。すなわち「手に入れたければ、求めたり探したりしてはいけない」ということ。その変形バージョンとしては「自分の欲望の原因は、決まってその価値の判らない他人のものになる」「欲望の原因は、それを求めていないときに与えられ、ひとたびそれを惜しむ気持ちが生まれると、それは必ず失われる」というものもある。
 実は僕たちの業界でも、そういうことは良く言われる。「患者を治そうとしすぎるな」というものその一つ。医師にとって治療が目的なのは当然だし、治療が可能であるからこそ、治療したいという欲望も生まれる。でも、だからこそ、「なにがなんでも自分が治す」という功名心は危険なのだ。患者のための治療がいつのまにか、自分のための治療になってしまい、そういう視野狭窄が、いろんな弊害をもたらすことになりかねない。もちろん、治療成績も悪くなると言われている。よく「医者は自分の身内は治療できない」と言われるけれど、それもこのへんの呼吸と関係しているんだろうな。
 ちなみに治療といえば、ラカン自身は精神分析家に対して、患者の対象aとなるように勧めている。つまり、患者の欲望の原因になりなさい、ということか。治療を直接に目指すよりはいいかもしれないけど、これはこれで、ひどくむずかしそうだ。
 フィクションの例で言えば、宮澤賢治の童話には、そういうモチーフが多いように思う。たとえば「よだかの星」では、醜い肉体を捨てて星になりたいという願い持つよだかが、いろんな星に頼んでは断られ、とうとうあきらめて自棄になって飛び続けていくうちに、最後には美しい星になる。「セロ弾きのゴーシュ」では、セロの上達を願う青年が、いろんな動物の奇妙な依頼につきあわされる。はじめは練習の邪魔と迷惑がっていたのに、気がついたらアンコールのソロで喝采を浴びるほどに上達していたという話。でも、何と言ってもこのモチーフが一番はっきり出ているのは「貝の火」だろうね。それほど有名じゃない話だから、ここで簡単に説明しておこう。
 ホモイという子ウサギが川に落ちたヒバリの子供を助けて、鳥の王様から「貝の火」という宝石をもらう。透明な丸い玉で、中には美しい炎が燃えている。ただし「一生満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけ」という伝説がある。貝の火の所有者ということで、すべての動物からの尊敬を一身にうけたホモイは、だんだんと傲慢になっていく。栗鼠に鈴蘭の実を集めさせたり、キツネと一緒にもぐらの親子をいじめたり、その度に父さんウサギに叱られるんだけど、貝の火は全然色あせない。ところがあるとき、ホモイは動物園を作ると称して鳥をガラス箱に閉じこめたキツネをたしなめようとして、逆に脅されて逃げ帰ってしまう。その晩はじめて貝の火は曇りはじめ、翌朝にはすっかり鉛の玉のような有様。ホモイは父さんウサギと一緒にキツネをやっつけて、捕らわれた鳥たちを解放するが、時すでに遅し。曇った貝の火は粉々にはじけてホモイを失明させ、フクロウには「たった六日だったな」とあざけられる始末。
 なんともひどい話だよね。無邪気なホモイがあんまり可愛そうだ。こんな陰惨な童話は、賢治作品にもほかに例を見ない。もちろんここに、仏教説話的な教訓を読みとることもできるだろう。慢心の戒め、とかね。でも、ラカン的な視点を取ると、別の見方も可能になってくる。
 ここでは「貝の火」が対象aだ。対象aにしては何ともあっさり与えられるわけだけど、この場合は、その火を絶やすことなく所有し続けることという試練とセットで与えられている。貝の火は、持っているだけで誰からも尊敬され、自分をいじめたキツネのような相手にだって、手下として何でも命じることができる。だから貝の火を持つことによって、ホモイはそれまで気づかなかった自分の欲望に気づいてしまう。そう、貝の火は欲望の原因として、ホモイに影響を及ぼすわけだ。だからホモイは、自分の欲望が暴走するのを止めることができなくなる。貝の火を持ち続けるためには、欲望をコントロールしなければならず、時には誰よりも禁欲的に振る舞わなければならない。しかし子供のホモイには、それがわからない。しょうしょう傲慢に振る舞っても色あせない貝の火を見て、自分は特別な存在だから、何をしても大丈夫、と思い込んでしまう。
 ただ、この物語には救いがないわけじゃない。失明して泣いているホモイを、父さんウサギが優しく慰めるラスト。「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」子供の頃にこの物語を読んだときは、僕はこんなセリフ、ただの気休めじゃないかと思ったものだ。でも、大人になって読み直してみると、これはこれで実に含蓄のある結末だ。この父親の厳しさと優しさ、そして頼もしさ。ただ綺麗なだけの貝の火なんかよりもよほど価値のある存在が、実はずっと身近にいてくれたことに、ホモイはいつか気づくんだろうか。やっぱり「青い鳥」は、常にすでに、家に居るんだなあ。
 ちょっとしんみりしたので、賢治作品からもう一つ、お気に入りのセリフを紹介してしめくくろう。
 「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。(どんぐりと山猫)」
 そう、ここでは「いちばんえらいこと」が「対象a」だ。いちばんえらくあるためには、いちばんえらくない存在であらねばならない。こうしてみると、宮澤賢治は、あきらかにラカン読んでますね。それも、ラカンが最初の論文を書く前に。
 もちろん、欲望を否定する必要はない。というか、それを否定しきることは誰にもできない。だから大切なことは、欲望のしくみを理解した上で、ときには無欲を装って生きることだ。欲しい物を真っ正面からばかり見つめずに、横目で眺めてみるレッスンも大切。そして、象徴界への支払いも忘れずに。そうすれば、必ず報われる。なぜならラカンによれば、そういう「手紙」は必ず宛先に届くのだから。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。