さて、前回は想像界についての話だったよね。実は今回もその続きだ。
 たしかもう「鏡像段階」については説明したよね。この段階で人間は、まだばらばらの状態であったみずからの身体イメージを、鏡の中ではじめて、ひとまとまりの全体性をもったものとして「発見」する。そして、そこで自己イメージを先取りしようとするわけだ。「先取り」ということはつまり、他のいろんな身体感覚はまだ十分に統合されていないのに、自分自身の視覚的なイメージだけは、異例に早い段階で獲得させられるという状況を指している。人間が視覚イメージにだまされやすいのも、このあたりに理由があるのかもしれないね。
 でも、しょせん相手は鏡だ。鏡にうつったイメージは、本当の自分の姿じゃない。鏡像段階というのは、本当の自分とは左右が反転した形のイメージに自分を同一化し、それが本当の自分ではないということを忘れていく過程でもあるんだ。これが、いちばん最初のナルシシズムだ。だから「じぶん」というのは、本当のことを言えば、自分と良く似たニセモノのイメージのことになる。その意味じゃ、鏡はのぞきこんで「ボクってステキ」というタイプのナルシシズムは、本当は自分自身へ直接に向けられた愛情とはちょっと違うんだ。
 ちなみにナルシシズムの元ネタがギリシャ神話っていうのは知ってるよね。美青年ナルキッソス Narcissus(英語読みならナーシサス)の有名な物語。とにかくモテモテのナルキッソスは、森のニンフ、エコーにつれなくしてしまったために、エコーはひきこもったあげくに声だけの存在になってしまう。その思いやりのなさに腹を立てた復讐の女神ネメシスは、ナルキッソスに呪いをかける。そんなに誰も愛せないなら、せいぜい自分に惚れ込んでな、とね。そんなある日、ナルキッソスは水を飲もうとして、水面に映った美青年、つまり自分の姿に恋をしてしまった。恋する立場になってようやく、自分がひどい仕打ちをしたことに気づいたものの、時すでに遅し。ナルキッソスは、自分の似姿に魅了されたまま、その場から離れることもかなわず、だんだんと衰弱して死んでしまう。彼の死体があった場所に咲いていた黄色い花は、のちに水仙(ナルキッソス)と呼ばれることになる。
 エコー、つまり「声」と「言葉」をないがしろにしたナルキッソスが、「イメージ」に殺される、ということも含めて、なかなか含蓄のある話だね。でもさしあたり重要なのは、この神話においてすら、ナルキッソスは鏡像を他人だと思い込んでいたということかな。ナルシシズムは、その起源からすでに、自分自身ならぬ「自分に良く似た他人」への愛情だったわけだ。さらに言えば「似ている」ということには、どんな基準も制約もない。似ているかどうかなんてことは、純粋に主観的にしか決定できないことなんだね。というわけで極論すれば、視覚イメージに魅了されるということは、多かれ少なかれナルシシズムの作用ということになる。
 ところで、この「鏡像」あるいは「似ていること」は、強烈な愛情をもたらすこともあれば、激しい攻撃性のもとになることもある。実は攻撃性の起源の一つは、ここにあるんじゃないかと思うくらいだ。そうだね、たとえばフロイトは「小さな違いの自己愛」ということを指摘している。外見や性質がまったくかけ離れたもの同士では生じにくい敵意が、似たもの同士の間では生じやすいことがある。それは、似ているがゆえに、ほんの少しの違いに固執して、自分のほうが優位に立とうという感情だ。よく「近親憎悪」なんて言い方があるけれど、これに近いかな。具体例で言えば、そうだな、ハリウッド・スキャンダルはどっか遠い惑星の話として、面白くはあってもそんなに嫉妬はかき立てられない。でも、日本の芸能スキャンダルになると、嫉妬やら羨望やらで、ずいぶんと叩かれたり足をひっぱられたりする。同胞だからこそ向けられる強い攻撃性の良い例だね。その源には、「俺があいつの立場だったら」という同一化の想像力が働いているわけだけど、これこそがナルシシズムの産物なんだ。
 ところで、鏡像が激しい攻撃性に結びついた話としては、ラカンが報告した「症例エメ」が、あまりにも有名だ。これについて、ここで簡単に紹介しておこう。もとの論文のタイトルは「人格への関係からみたパラノイア性精神病」という。1932年に発表された、ラカンの学位論文だ。
 1930年代初頭のとある春の宵、人気女優のZ夫人は、舞台出演のため劇場に到着した。彼女は楽屋へ通ずる出入り口にさしかかったところで、近づいてきた見知らぬ女性にナイフで斬りつけられ負傷してしまう。この犯人がのちに症例エメと呼ばれることになる38歳の女性だった。エメはすぐに逮捕されたが、犯行の理由については、Z夫人が自分のスキャンダルを巻き起こしていることに気づいたなどと、意味不明なことを述べていた。エメは精神鑑定を受けて迫害妄想を持っていたと判定され、サンタンヌ病院で入院治療を受けることになる。このときエメを担当した医師が、ラカンその人だったんだ。
 エメは18歳からある鉄道会社の事務員として真面目に勤務していた。ただし一度だけ、精神障害のために10ヶ月間休職したことがあった。エメには夫との間に息子が一人いたんだけど、エメの職場がパリに移ったために、そこで単身赴任生活を送っていたようだ。一人暮らしの日々の中で、エメはなぜかZ夫人が自分に不利な噂を立てたり、自分の息子に危害を加えようとしていると感じるようになる。この攻撃を阻止するために、エメは夫人をナイフで襲ったんだけど、逮捕されてからエメの状態は劇的に変化した。迫害妄想が跡形もなく消えて、エメは自分のしたことを悔いるようになったんだ。
 エメの複雑な生い立ちについては省略する。ここでは「鏡像」に関連しそうなところだけ、かいつまんで述べることにしよう。エメは結婚前に、職場で同じ部署だったC嬢と親しく交際していた。彼女は知的かつ非常に魅力的な女性で、しかも没落貴族の出身ということを隠そうともせず、その貴族的なたたずまいと上流階級的な振る舞いによって、エメたち同僚を下僕のように従えていた。エメはそんなC嬢にすっかり魅了されていた。エメが怪我を負わせたZ夫人の名前も、このC嬢から聞いたらしい。配置転換でC嬢との関係は終わるんだけど、子どもを生んだ頃から、エメはC嬢に対しても被害妄想的になっていく。あんまり妄想がこうじたので、32歳の時に入院治療を受けるんだけど、実は十分には改善していなかったんだね。Z夫人が自分を迫害しようとしているという妄想を抱くようになるのも、このころからだったという。
 C嬢といいZ夫人といい、エメの妄想の対象は、魅力的な上流階級の人間、言い換えるならエメがそうなりたいと切望しつつなれなかった立場の人間ということになる。このとき、憧れの対象は、エメが理想を投影するための鏡となっている。「自分とはなにか」という問いかけは「自分は何を欲しているか」という問いかけとイコールだ。エメの理想は、エメに「自分とは何か」という問いの答えを与えてくれるイメージなんだ。そのイメージに魅入られているかぎり、エメは調和と統一性をそなえた自己イメージを持つことができた。これはすごく重要なことだ。人間は自分の立場や存在意義のために、時には命も投げ出してしまうからね。
 こうしてC嬢やZ夫人は、エメの鏡像になった。しかし、それは決して、安定した心の平安をもたらしはしない。むしろそれは、新たな戦いを準備することになる。どんな戦いか? それはまさに、所有とコントロールの権利をめぐる戦いだ。いったい誰が、エメ自身の主人なのか。エメ本人か、あるいは鏡像としてのZ夫人か。これは鏡像と正面から向かい合っている限り、けっして答えのでない問いかけなんだ。かくしてエメは、Z夫人に魅了されると同時に、あたかも自分からすべての良いものを奪い去ってしまった憎むべき敵として、夫人を激しく攻撃するようになったんだ。
 この症例報告をここまで読んで、「あの映画そっくりだ」と感じた人は多いと思う。そう、エメの物語は、パトシリア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』と、構造的にとってもよく似ている。この映画を、エメ症例を引用して分析していた論文もたしかあったと思う。もう40年前の映画だから知らない人も多いと思うけど、さいわいごく最近になって、アンソニー・ミンゲラ監督、マット・デイモン主演の映画『リプリー』というタイトル(こっちが原題に近い)でリメイクされ、大ヒットした。これなら観た人も多いだろうから、こちらについて簡単に解説しておこう。
 『リプリー』は、イタリアで遊び暮らしている大富豪の息子ディッキー・グリーンリーフと、ハンサムな彼に憧れて同一化しようとしたあげく、ついには殺してしまうトム・リプリーという、ふたりの青年の物語だ。トムは、貧乏でナイーブな空っぽの青年で、しかし物真似の才能には恵まれている。トムはディッキーの父から息子を連れ帰るよう依頼されてイタリアに渡るが、太陽のように明るく魅力的な青年ディッキーに魅せられたトムは、次第にディッキーに同一化していく。ディッキーのほうも、最初は好奇心からトムと親密になるが、次第にそうした同性愛的な関係に嫌気がさして、トムを遠ざけようとする、その挙げ句の殺人。トムはディッキーのサインを真似、所持品を身につけてディッキーになりすまそうとする。しかし……。
 ネタバレはしないように、紹介はここまでにしておくけれど、愛情ゆえに同一化し、同一化してしまったがために支配欲が生まれ、支配欲ゆえに激しい攻撃性がもたらされるという構造は、まさしく症例エメと同じだね。いや、それどころか、この種の事件は、実は過去に何度も繰り返されていはしないか。ジョン・レノンに5発の銃弾を撃ち込んで殺害したマーク・チャップマン、同じくジョンのファンで、同時に『タクシー・ドライバー』の主人公トラヴィスに傾倒し、レーガン大統領の暗殺をこころみたジョン・ヒンクリー・ジュニア、愛と攻撃性の究極の一体化とでもいうべきカニバリズムに走ってしまった佐川一政……。
 こんなふうに、いったん鏡像関係が生まれてしまうと、そこには強い愛と同時に、激しい攻撃性が生まれてくる。鏡像に自己イメージを理想を含めて投影し、同一化を試み、しかし同一化が進めば進むほど、自己の支配権、所有権を鏡像に奪われてしまうという不安や被害感も高まっていく。これがまさに「食うか食われるか」という、激しい闘争にまで発展していくわけだ。ラカンはこの関係を、ヘーゲルを引用して「主人と奴隷の弁証法」と呼んでいた。そしてこの関係は、鏡像関係、言い換えるなら二者関係から抜け出さない限り、けっして終わらない。第三者からの介入が必要となってくるのだ。そう、エディプス期において、母子関係に「父」が介入してきたようにね。
 エメのケースにも、そういう解釈を当てはめることができる。ラカンは、エメの迫害妄想の背後に、「法律によって罰せられたい」という願望があったのではないかと指摘し、「自罰パラノイア」という診断を下している。そして事実、エメは逮捕されて精神病院に収容される、つまり「罰を受ける」ことで、妄想から改善していったんだ。もしラカンの解釈が正しいのなら、エメ−Z夫人の鏡像関係は、まさに「罰を下すもの」としての「法」の介入によって破壊され、このときエメははじめて、愛と攻撃性の夢から醒めることができたんじゃないか。この発想は、現代においても、たとえばDVや依存症の治療現場などでは、きわめて有効に生かすことができるように思うんだけど、どうだろう。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。