今回は、想像界の話をしようと思う。
 象徴界、想像界、現実界、の三界のひとつ、想像界だ。前回も話したとおり、この世界のどこかに、そういう「界」が実体として存在するわけじゃないことは、もうわかってるね。すごく単純化して言えば、この三界は、常に僕たちがものごとを認識するさいにつきまとう位相的な区分にすぎないんだから。
 想像界というのは、なんとなくわかると思うけれど、イメージだけで成り立っている世界のことだ。三界のうちでは、いちばん認識が容易で、コントロールも可能な領域。それが想像界だ。うん、ちょうどいい、この「コントロール」ということを例にとって考えてみよう。認識も行為の一つと考えるなら、ある行為がどのくらい自分のコントロール下におかれているかどうかっていう判断は、この三界の説明にもけっこう使える。どういうことかって?
 もしその行為や認識が、完全に自分にとってコントロール可能なものであるならば、それはさっきも言ったように想像的なものだ。これはわかるよね。およそ「想像」というものは、原則として自分のコントロール下にあるんだから。ただ、すべてのイメージが、というわけじゃない。たとえば、振り払っても振り払っても嫌なイメージが浮かんでくるという経験は、誰にでも覚えがあるよね。これがこじれると「強迫観念」なんて名前がつくこともある。こういう場合についてはどうだろう。そのイメージは想像的とばかりは言えなくなってくるんじゃないか。
 そう、この場合は、イメージに象徴的な作用が及んでいる。「コントロール」をキーワードにして「象徴的なもの」を語るなら、こんなふうになる。自分でコントロールしているはずが、いつのまにかコントロールされていることに気づかされるとき、そこには象徴的なものが作用している、と。どんな状況か、ちょっとわかりにくいか。じゃあ例えば、僕らがお喋りをするときのことを考えてみよう。長電話でも何でもいいんだけれど、みんな、自分が次に何を喋るか、いちいち考えながら喋っているかな? そうじゃないよね。話題の完全なイメージを持ってから話をする、なんてことは、結婚式のスピーチとか、そういう特別な場合に限ってのことだろう。むしろふだんは、いちいち考えずに、自動的に言葉が口をついて出るに任せている。その間アタマの中では、ぜんぜん別のことを考えていたり、あるいは何も考えていなかったりする。
 僕も講演会なんかで、喋りながらたまに眠りそうになることがあるんだけど、アタマはもうろうとしているのに、意外にしっかり話はしていることがある。もちろん、講師のくせに寝てんじゃねェよ、と言われれば返す言葉もない。しかし、こういう場合を考えるにつけ、言葉を喋るというのは不思議なことだなあ、とつくづく感じるね。あるいは政治家の失言についても同じことが言える。よく考えて喋っていれば避けられるわけなんだろうけど、なぜか繰り返すよね。これにしたって、やはり語るということが、ある程度は自動的なものだからだろう。いま「自動的」と言ったけど、じゃあそこでは、本当は誰が喋っているのか? これはなかなか、難しい問題だ。僕の考えでは、ここで勝手に喋っているもの、自動的な感じをもたらしているものこそが「無意識」なんだね。で、無意識ということは、ラカンの文脈に話を戻すなら、すなわち「象徴界」ということになるわけだ。
 ちなみに象徴界は、これとは逆の働きをすることもある。たとえば、他者からのコントロールに身を委ねて行動しているつもりが、いつの間にか自分から進んで、積極的に行動していることに気づく、というような場合ね。こちらは戦争中とか、組織内での不祥事の隠蔽工作とか、そういう場合に起こりやすいんじゃないかな。最初はいやいや協力させられていた個人が、だんだん積極的に、つまり「自分の意志で」荷担するようになっていく過程。ここでの象徴界も無意識に関連づけることができるけれど、むしろこの場合は、象徴界=社会のように考えた方がわかりやすいかもしれない。

 またずいぶんと脱線しちゃったね。今回のテーマは「想像界」だった。ここで話をそっちに戻すとしよう。想像界は視覚的イメージの世界、さらに言えば、「ウソの世界」だ。ずいぶんな言い方だけど、ラカン的な文脈で言えば、そういうことになる。どんなに賢い人でも、イメージにはついうっかりだまされやすい。第五回でも話したことだけど、言葉は本質的にフィクションの側にあるけど、イメージは事実の側にある。つまり、イメージをつきつけられると、人間はとっさに、それを事実と信じ込んでしまう。もちろん、その後の分析やら反省やらの後知恵を駆使して、そのイメージが偽であると冷静に判断することができる場合もあるけれど、それができない場合のほうが圧倒的に多い。だからこそ、視覚イメージには要注意だ。真実らしくみえるイメージほど、慎重に扱う必要がある。それではなぜ、僕らはイメージにこれほどだまされやすいんだろう。
 そのためにはまず、「想像界」の起源について、知っておいてもらう必要がある。ラカン理論には「鏡像段階」という概念があって、ここに「想像界」の起源があるといわれている。これ、もし学校にラカンの授業があれば必ずテストに出るくらい重要なところだから、ちょっと面倒だけどつきあってね。
 生後まもない赤ん坊は、まだ脳などの神経系の発達も不十分で、ママと自分の区別も十分につかないらしい。ということは、自分の身体イメージもあいまいで、自分がどんな顔をしていて、どのくらいの身長なのか、太めなのかやせているのか、そういうイメージも持てないでいるわけだ。そもそも「自分」という意識すらないんだから、これは仕方ないんだけどね。こういう時期を経てきたことの名残が、大人になってからも夢なんかにときどき出てくる「寸断された身体」、つまり、顔や手足なんかがバラバラにされた身体イメージなんだそうだ。それがホントかどうかはさておき、そういう夢は僕もたしかにみたことがある。
 生後6ヶ月から18ヶ月くらいの時期、子どもは鏡に写った自分の姿に関心を持ちはじめる。ラカンによれば、それが自分自身の映像であることを知って、子どもは小躍りして喜ぶという。まあこのへんも、本当に鏡の前のダンシング・ベビーが実在するかどうかは突っ込まないでおいてほしい。人間が鏡にひとかたならぬ関心を持っていることは、まぎれもない事実なんだから。ちなみに、人間以外の動物は、鏡にうつったイメージをみて、自分の姿として認識することはかなり難しいらしい。むしろライバルや敵と思い込んで、ケンカを売ったりすることもあるとか。チンパンジーなど、一部の賢い動物は、鏡を理解できることもあるらしいが、こちらはあくまでも特訓と学習の成果だ。
 でも、考えてみれば不思議なことだ。人間はどうして、鏡のイメージを当たり前のように自分のことだと信じ込むことができるのか。ラカンによれば、それは母親によって、ということになる。鏡に写った自分の姿に関心と喜びを示しているわが子に対して、母親が「そう、それはお前だよ」と保証してあげること。これが大切なんだ。こういう経験を経ることで、子どもは「これが私だ」という認識を持つことができる。いったいこのとき、子どもは何に喜んでいるんだろう。ラカンによれば、ばらばらに感じられていた自分の身体イメージが、鏡の中でひとつのまとまった直感的イメージを獲得することを喜んでいるらしい。この認識は、最初の知能でもあるという。このように、鏡に映し出されたイメージの力を借りて、子どもが自分のイメージをはじめて持てるようになる時期のことを「鏡像段階」と呼ぶわけだ。
 しかし、鏡像段階には大きな「罠」がひそんでいる。いうまでもなく、鏡に写った像はニセモノだ。しかし人間は、鏡に写った像、すなわち幻想の力を借りなければ、そもそも「自分」であることができない。これはイメージというものに対して、大きな「借り」ができたことを意味している。あたりまえだけど、人間は自分自身の眼で自分を直接に眺めることができない。かわりに、左右の反転した鏡像、つまりはウソの、他者の姿としてしか自分を眺めることができない。これを精神分析では「主体は自我を鏡像の中に疎外する」という言い方をする。鏡の力を借りる限り、人間はけっして「真の自分の姿」にたどりつくことはない、というほどの意味だ。
 左右が反転しているとはいえ、人間の体は基本的に左右対称に近いんだから、別にそんな大げさに考えなくとも、という意見もあるかもしれない。でもね、イメージの左右が逆になるって言うのは、けっこう大変なことだよ。そのことを一番手っ取り早く確認するには、なにか文字の書かれたものを持って、鏡をのぞき込んでみるといい。そこに映るのは、何の変哲もない自分の顔、でも一緒に映っている文字は、左右反転しただけなのに、なんだか得体の知れない記号になってしまっている。ほとんど読めないくらいだ。このギャップの大きさこそが、人間が鏡によってだまされている度合いそのものなんだね。
 もちろん、こうした「疎外」や「ウソ」は、ほとんど自覚されることはない。このため人間は、自分自身についても誤解に陥ってしまいがちだ。とりわけ自分の欲望については、それが他者の欲望の反映でしかないことなんかも、しばしば忘れられている。でも、もちろん悪いことばかりじゃない。たとえば「愛」。精神分析によれば、いかなる愛も自己愛の変形なんだけど、自己愛もこういう鏡像に向けられる過程を経ることで、次第に他者へと向けられるようになっていく。だって、そもそもの自己愛が向かう先が、「鏡の中の自分」という他者なんだから。ちょっとややこしいね。まとめると、愛はそもそも自己愛なんだけど、自己愛はその根底に、本質的に他者へと向かう方向性をはらんでいる、ということになるかな。
 あるいは「同一化」の能力も、この鏡像段階に由来するものだ。自分ではないものを自分自身だと錯覚することが、「同一化」だ。最初に同一化する対象が鏡像であったおかげで、人間はさまざまな形あるもの、あるいは名前のあるものに対して、同一化する能力を身につけることになる。「真の自己イメージ」しか持ち得ないものには、こういう柔軟性はない。むしろ最初の自己イメージがニセモノだったからこそ、いろんな対象に自己イメージを重ねる力が手に入ったわけだ。そう考えると、鏡像段階も捨てたもんじゃないって気がしてくるね。
 想像界は、愛だけじゃなく、激しい攻撃性の源でもありうる。次回は、想像界の別の側面について、少し詳しく語ることにしよう。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。