ウォシャウスキー兄弟の大ヒット映画「マトリックス」は、みんな観たことあるよね。この映画、SF考証的にはいろいろと難癖をつける人もいるみたいだけど、見れば単純に面白いし、精神分析をめぐる寓話としても、かなり良くできている。今回はこの映画の話からはじめよう。前回予告したはずの「去勢」はどうしたって? もちろん、話はだんだんとそっちのほうにいくからさ、もうちょっと待って。
 では「マトリックス」の設定を、少しおさらいしてみようかな。この映画、オチがわかってつまらない、というものじゃないんだけど、ここからはいちおうネタバレを少し含むから、未見の人は、ここは読み飛ばしてもいいよ。でもラカン理解にも最適な教材だから、できたらレンタルでもして、見ておいて欲しいな。
 映画の舞台は2199年、人間はコンピューターの熱源として「栽培」されている。つまり、ほとんどの人間は、巨大なコンピューターの支配下におかれているってわけだ。なんか孵卵器みたいな特殊な昆虫の胎内で人間は眠り続け、コンピューターが作り出した1999年の仮想世界の夢を見続けている。この仮想世界こそが「マトリックス」だ。人々はこの偽物の世界で一生を送ることになるわけだけど、誰もそのことに気づかない。そんなことになってしまった世界で「マトリックス」の存在に気づいた反乱組織が、コンピューターの支配と戦うというのがストーリーの骨子だ。
 ラカンのいう「三界」について、前回は「モンスターズ・インク」の例で話したけど、今回はちょっと別の角度からたとえてみよう。仮想世界「マトリックス」は、偽物のイメージの世界という意味で、そのまま想像界になぞらえることができる。で、人間がマトリックスの夢をみながら寝ている「現実世界」が現実界。じゃあ、象徴界はどこかって?
 主人公ネオの「覚醒」シーンを思い出して欲しい。いちど死んで蘇った救世主ネオの目に映るのは、もはや仮想世界の、人をあざむく上っ面じゃない。彼はいまや、マトリックスを生み出しているプログラムのコードそのものを眺めることが出来るのだ。このシーン、言葉で説明するのは難しいけど、見れば一瞬でそれとわかる、すごくカッコいいクライマックスになっている。僕は個人的には、あの有名な「弾丸よけ」シーンよりも、こっちが好きだな。
 それはともかく、ネオが見ているコード・システムこそが、ここでは象徴界に相当するってわけ。
 じかに象徴界が見えてしまうってことは、眼に見えるウソに騙されない、真理を見通す目を持ってしまうことを意味している。だからネオは、ここで理想的な精神分析家になったと言えるかも知れない。コードさえ読めれば、マトリックスの中でエージェントたちがしかけてくる戦闘など、児戯に等しいものになる。精神分析もこのくらいはっきりと有効なら、もっと流行るだろうになあ。
 ここまでの例えである程度判ってもらえたと思うけど、ただ、これが一つの見方に過ぎないってことだけは、念を押しとくね。想像界・象徴界・現実界という区分は、常に位相的な区分でしかないんだから。位相的っていう意味は、互いの位置関係が常に相対的に決まるっていうこと。すごく雑ぱくな捉え方だけど、一種の座標軸みたいなイメージかな。x,y,zの三つの軸があるとして、x軸だけ取り出したい、と言われても、それは無理な話だ。同じように、この三界区分も人間の認識における座標軸の一種と、さしあたりは考えてくれて構わないと思う。というのも、どんな認識をするに際しても、そこには言うなれば「認識の局面」として、この三界区分が存在するからだ。
 だからこの三界は、それぞれに対応するなんらかの実体的な空間や領域を、この世において占めているわけじゃないんだ。「界」っていう言葉から、ついそう考えたくなるけどね。だから、「ちょっと『現実界』に行きたいんだけど、どうすればいい?」とか聞かれても、そりゃ無理ってものだ。
 ところで、この映画で主人公ネオが覚醒していく過程の描かれ方は、なかなか興味深い。たとえばマトリックスが偽物だと知らされたネオに、反乱グループのボスであるモーフィアスが言う。「ようこそ、現実の砂漠へ」とね。そう、仮想世界の豊かさに比べて、現実の世界はそれこそ砂漠なみに味気なく、殺伐としている。でも、マトリックスが偽物であることに気づくことは、ネオに新たな力をもたらしてくれる。つまり、マトリックス内部では、カンフーの達人だったり、飛んでくる銃弾を体を反らしてよけたり出来るようになる。マトリックスを「現実」と思い込んでいたら、こうはいかない。そして、ネオがさらなる覚醒に至るために、一度死ななければならなかったこと。この点も大切だ。大きな「自由」を獲得するには、大きな「犠牲」を払わなくてはならない。そして、これこそが「去勢」の本質なんだ。
 そう、人間は象徴界に入っていくために、万能感を捨てなくてはならない。これは前回もちょっとふれたエディプス・コンプレックスにおける重要な過程だったね。ラカンによる去勢について、もう一度おさらいしておこう。
・それはエディプス期に起こる。
・それはまず、自分がファルス(ペニスの象徴=万能感)であることをあきらめることである。
・次に、自分がファルスを持つことをあきらめることでもある。
 しかし「去勢」について、本格的に知るためには、やはりフロイトまでさかのぼる必要があるだろうね。フロイトとラカンとでは、その語り方がずいぶん異なっているからだ。ちょっと戸惑うかも知れないけれど、今回はまず、フロイトのいわゆる「去勢コンプレックス」について説明しよう。
 去勢というのは、だいたい5歳くらいの子どもが、無意識のうちに体験するとされている、かなり複雑な心理体験のことだ。この段階は、子どもが自分の性同一性、つまり「自分は男(女)だ」という確信を得るためには、すごく重要な時期なんだね。とりわけ男の子の去勢コンプレックスは、だいたい次のような段階を経ていくと言われている。
 まずはじめ、男の子は、人間は誰でもペニスを持っているものだと思い込んでいる。なんでそう言えるのかって? 小さい男の子が、女の子の絵を描くとき、しばしば女の子にもちんちんを描き加えることがある。性差の理解が十分でないうちは、人間にはちんちんが平等にくっついていると思い込みやすいものなんだ。それと、男の子は自分のちんちんをいじくるのが好きだ。でもあまりいじくってばかりいると、叱られてしまう。日本ではそういう叱り方が一般的かどうかわからないけど、欧米では子どもに「あまりいじってばかりいると、ちょん切っちゃうぞ」とか何とか、ひどい言い方をするらしい。もちろんこれはトラウマ体験、それも、いちばん原初的と言ってもいいトラウマ体験となる。でも、トラウマならなんでも悪い、というふうには決めつけられないんだね。子どもは父親からこんなふうに叱られることで、父親の権威を認めると同時に、母親を自分のものにしたいという欲望をあきらめることになるんだから。
 ほぼ同じ時期に、男の子は同年代の女の子たちにちんちんがついていないことを、お風呂場やなんかで目撃してびっくりする。「そんなばかな」と男の子は驚き、「いまはまだ小さいだけなんだ、そのうち大きくなるんだ」と自分に言い聞かせる。そのくらい、このことはショックなんだね。だって、もしこの事実を認めたら、「自分のちんちんもなくなってしまうかも」という不安が生じてくるんだから。でも、母親と一緒にお風呂に入ったりもしているうちに、男の子はそんなごまかしが通用しないことに気づく。そしてあらためて思い出すわけだ。むかし「ちょん切るぞ」と脅かされた記憶を。
 ペニスをとられるかもしれないという不安を、男の子はどんなふうに解消するか。そう、ペニスをとられないためには、自分の欲望を制限すればいいのだ。とりわけ、母親を自分だけのものにしたいという独占欲をあきらめれば、ペニスはなくならない。男の子は、自分のペニスを守るために、母親をあきらめ、父親を受け入れる。かくしてエディプス・コンプレックス(父を殺し、母と寝たい)は終わる。男の子は、自分の限界を受け入れた。しかしそのことによって、心には豊かで複雑な構造が生まれ、あらたな自由の領域が広がったわけだ。このことを、フロイトはこんなふうに表現している。「男の子の場合、エディプス・コンプレックスは単に抑圧されるのではない。去勢の威嚇がもたらす衝撃のもとで、文字通り砕け散るのである」と。なんかすごい表現だね。
 じゃあ、女の子はどうなってるんだろう。
 まず先に、男の子との共通点から。女の子も、はじめのうちは、人間は誰でもペニスを持っていると信じている。それと、母親の去勢、つまり母親にペニスがないと知ってから、母親から離れていく。このあたりの構図は、まったく一緒だ。
 でも、このほかの点は、男の子とはずいぶん違っている。
 まず、女の子は、はじめのうち、自分のクリトリスをペニスだと思い込もうとするらしい。ところが、男の子のペニスを目撃して、女の子は瞬時に悟る。「自分にはあれがついていない。あれが欲しい」と。これが有名な「ペニス羨望」ってやつだね。女性のペニス羨望は、男性の去勢コンプレックスと、ちょうど対になっていると言われる。どっちも、あんまり長くそこに引っ掛かっていると、大人になってからも神経症になったりして苦労する、という意味でね。実はこの「ペニス羨望」ってのも評判の芳しくない概念で、女性のみなさんは、まず納得しないだろうね。「別にあたし、ペニスとか要らないし」と、速攻で断言されそう。でも、あくまでもペニスが象徴的表現だと言う前提で、もう少し我慢してつきあってね。
 女の子はまず、離乳の段階で母親から分離する。フロイトは、女性の場合、この分離の恨みが男の子よりも長く残るとしている。それはともかく、女性は自分にペニスがないことを発見したのとほぼ同時期に、母親にもペニスがないことを発見するわけだ。母親の無力にあきれた女の子は、ここで母親を自分から見捨てるんだけど、ここで女の子の中に抑え込まれていた、最初の分離(離乳の時の)の時の恨みがぶり返してくると言われている。ここで母親への憎しみが芽生えるんだね。そして、女の子の欲望は父親へと向かう。
 実はフロイトによれば、女の子のエディプス・コンプレックスは、この、父親へと欲望が向かい始めた時点からはじまり、その後一生涯続くとされている。同時に、ペニスを持ちたいという願望は、セックスでペニスを享受したいという願望に変わり、性感帯がクリトリスから膣に変わる。これも巷で評判の悪い「大人の女性は膣で感じる」という、例の決めつけの根源だね。昔はやった「Gスポット信仰」なんかも、このあたりに源泉があるのかなあ。まあ、ここまでフロイトを弁護しようとは思わないけど、このあたり、とにかくフロイトは徹底して形式的に考えようとしてはいる。その努力は認めようじゃないか。って、誰に言ってる?
 それはともかく、もう少しだけ。膣でペニスを享受したいという段階にいたった女性は、ペニスの代理物としての「子ども」を生みたいという願望を持つようになる。去勢コンプレックスはこうして終わるけど、男性と違って、女性のエディプス・コンプレックス(母親を殺し、父親と寝たい)は、ここからはじまることになるらしい。
 こうして、去勢の経験をへた子どもは、社会へと一歩踏み込んだことになる。このとき、ペニスは象徴化されてファルスとなっている。なんでそう言えるかって? そうだな、ひとつの根拠として、夢とか物語なんかに、ペニスが身体から分離されたかたちで出現することがあるよね。たとえば男性がペニスだけの存在になっちゃう話って、僕の知る限りでも作家の小松左京とか、漫画家の手塚治虫、ひさうちみちおあたりが描いていた。あとほら、アダルト向けの漫画でよくあるのは、ペニスを可愛い(?)キャラクターにしちゃう表現ね。そういえば、そもそも「ムスコ」「せがれ」「ジュニア」っていう呼び方も、ペニスの擬人化だなあ。こうしてみていくと、それがいかに、われわれにとってなじみ深い象徴であるかがよくわかる。そのまんま「シンボル」っていう表現もあることだし。ともかく、それが象徴であるからこそ、身体から分離されてイメージされやすいのだ。
 ファルスは、このように身体から切り離されると同時に、欲望の究極の対象になっていく。言い換えるなら、去勢は欲望の対象物をファルス的なものにしてしまうわけだ。どういうことかって? 例えばクルマ好きやプラモデル好きといったフェティシズムにおいて、「クルマ」「プラモデル」などは、ペニスの代用物とみるのが、精神分析の定番となっている。なぜそう言いうるかは、別の回に説明しよう。いまはただ、そういうものだということだけ押さえておいてほしい。
 さて、ラカンはこう言っている。「去勢の受け入れは欠如をもたらす。欲望は、この欠如によって確立される」あるいは「去勢は、正常者においても異常者においても、欲望を調整している」とね。つまりこういうことだ。去勢の過程は、欠如として、つまり実体を欠いた象徴としての「ファルス」をもたらしてくれる。これは前にも話したとおり、シンボルの中のシンボル、究極の象徴だ。たしか第2回で、欲望とファルスの関係を後で説明する、と予告したはずだけど、これがその答えになるかな。欲望は言語という象徴によって決定づけられる。それゆえ欲望の究極の目標は、究極のシンボルである「ファルス」へと向かう。そういう理屈だね。
 ラカンがはっきり明言しているわけじゃないけど、僕の考えでは、「去勢」は子どもだけが経験する一回限りの出来事じゃない。その原型は、たしかに幼児期にあるかもしれないが、去勢的な体験は何度となく反復されるだろう。思春期や青年期なんか、とくにそうだよね。自分の幼い万能感に酔いしれたかと思うと、他人の言動であっさり自信をなくしたり傷ついたり。その意味では、他者によって去勢されるという幻想は、生涯にわたって続く可能性もある。ラカンの「去勢は、掟の場所としての他者の主体を想定している」あるいは「神経症者は、他者が自分の去勢を求めていると想像する」という指摘は、このあたりの事情を指しているのかもしれない。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)