いままで繰り返し、言葉と「シニフィアン」との関係性について話してきたけれど、これはラカンの言葉でいえば、「象徴界」についての話ということになる。近い内に詳しく話すつもりだけど、ラカンは人間のこころを作り出しているシステムを3種類に分類したんだね。それが「現実界」「象徴界」「想像界」だ。
 ものすごく単純化して説明しよう。今ヒット中のディズニー映画『モンスターズ・インク』は、フルCGのアニメーションだけど、このCG画面を例にとって考えてみる。このとき画面上に映し出された女の子やモンスターたちの画像イメージが「想像界」にあたる。ところで、そのイメージを作り出すには、何万行ものプログラムが背後にあるわけだ。もちろん、プログラム言語をどんなにじっと眺めても、イメージのかけらも浮かんでこない。それはどこまでも、無意味な文字の羅列にしかみえないだろう。この文字列が「象徴界」にあたる。さらに、プログラムが走るには、パソコンのハードウェアが動かなくちゃならない。そしてもちろん、このハードウェアの作動については、僕たちは何もじかに理解することができないし、そこに手を加えることも不可能だ。いわば認識のラチ外にある世界なわけだ。これがラカンのいうところの「現実界」に相当するということになる。
 どうかな、なんとなくわかってもらえたかな。ここで大事なことは、この3つの「界」には、どっちが深くてどっちが浅い、といった区別がないこと。普通に考えたら「現実界」が一番深層にある、と思われがちだけど、そうじゃないんだ。それは人間の眼から見た場合に、想像界がいちばん表面的に見える、という「見え方」の問題なんだね。
 ところで、象徴界をたんに「言葉の世界」と言い切れないのは、言葉には「意味」という、想像的なものがいつもまとわりついているからだ。ちょっとわかりにくいかな。「意味」というのは、現象の一番わかりやすい側面のことを指している。あることが「わかる」っていうのは、そのことについてイメージを持つことができるってことだ。つまり、意味はイメージ的な認識だから「想像的」なんだね。ところが象徴界というのは、正確には言葉じゃなくてシニフィアンの世界だ。そこには、必ずしも意味が伴うとは限らない。あるのは純粋に構造だけで、だからそこでの出来事も、意味じゃなくて構造に従って起こる。ここでいう「構造」っていうのは、実は無意識の構造でもあるんだね。そう、前に出てきた「言語のように(として)構造化されている」の「構造」だね。
 ところで、ちょっと人類史をひもとくだけでも、人間にとって、象徴界がどんなに普遍的な存在であるかがわかる。いろんな石碑や古墳、壁画などに刻まれた文字や記号は、僕たちが太古の昔から、象徴的なものを巧みに用いる動物だったってことを示している。さらに、原始的な社会では、象徴的な決まり事が大きな影響力を持っていた。たとえば「外婚制」なんかがそうだね。これは要するに、一族の外から妻を迎えるきまり、言い換えれば近親相姦の禁止を指している。このタブーはかなり強力なもので、いろんな社会において当たり前のように受け入れられている。でも、そこには本当は、たいした根拠はない。つまり、「意味」はないんだ。劣性遺伝をふせぐとか、共同体間の経済的交換を活性化するとか、いろんな学問的な解釈はあるけれど、みんな後知恵だし、それが事実かどうかも実は疑わしい。でも、すごく強力な決まり事として社会に影響を及ぼしている。
 象徴界はこんなふうに、たとえば掟という形で拘束力を発揮し、財産や女性の循環をコントロールするわけだ。別の言い方をするなら、こころの構造においては無意識的な仕方で作用を及ぼしている、とも言える。なぜなら、そこでは「意味」や「目的」が隠されており、はっきりと意識されることはないからだ。こんなふうに、原始社会におけるタブーや掟のシステムは、意味や目的とは異なった論理学的な形式、すなわち象徴界の法によって成り立っている。
 じゃあ、ひとりの人間にとって、その象徴界がどんなふうに成立するのか。ここで鍵を握っているのが、「エディプス・コンプレックス」だ。もちろん、その名前くらいは知っているよね。さきに結論から言ってしまうと、人間はエディプス・コンプレックスを通過することで、象徴界に参入することができる、ということ。逆にいえば、この段階を経験しなければ、人間は言葉を語る存在になれない。もっとラカン的に言えば、エディプスなしでは、人間は人間になることすらできないってわけだ。
 ちなみに精神分析には、いろんな「コンプレックス」がある。コンプレックスとは、無意識において強い情動(=感情)と結びついている観念のことだ。その観念を思い出すと、怒りとか恥とかの強い感情が湧いてくるような。ただし、僕らが日常的に「ちょっとコンプレックスがあって…」なんていうときの言葉は、正確には「インフェリオリティ・コンプレックス」、つまり「劣等感」のことを指している。この言葉を考え出したのは、フロイトの弟子アドラーだね。あとエディプスとちょうど対になったかたちで「エレクトラ・コンプレックス」も良く知られている。詳しい解説は省くけれど、これはやはりフロイトの弟子ユングの命名した概念で、ひらたく言えば「ファザコン」のことだ。ほかにも新旧とりまぜて、実にさまざまなコンプレックスがあるわけだけれど、本当に重要なものはたった一つ、この「エディプス・コンプレックス」だけなんだ。少なくとも、ラカンはそう考えたわけだね。
 じゃあ、そもそもエディプス・コンプレックスとは何か。これも簡単に言おう。父を殺して、母と交わりたい、そういう人類普遍の欲望の源を指している。そう、こういう真実をはっきり言い切ってしまうから、精神分析は評判が悪いんだよなあ。でも、勘違いしないで欲しい。そう言ったからといって、僕はきみが、きみの実の両親に対してそういう願望を抱いているとか、そんなことを言うつもりはない。ここでいう「父」や「母」は、かなり抽象的な概念で、その実物とはあまり関係がないからね。父親的な、あるいは母親的な存在、といった具合に理解して欲しい。なにしろそれは、必ずしも「人」である必要すらないんだから。
 エディプス・コンプレックスの出典は、紀元前5世紀くらいに古代ギリシャの劇作家ソポクレスの書いた悲劇『オイディプス王』(藤沢令夫訳 岩波書店)だ。以下、ものすごく簡単なあらすじ。テーバイ国のオイディプス王は、いろいろと数奇な巡り合わせから、自分の実の父・ライオス王をそれとは知らずに三叉路で殺害し、さらに自分の母親イオカステとうっかり結婚して子をもうけてしまうはめになる。またいろいろとあって、ついに真実を知った彼は、やはり事実を知って自害した母親の金のブローチで両眼を突いて盲目となり、流浪の旅に出る。
 この物語に注目したのがフロイトだ。彼はすごく古典の教養があったもんだから、この物語には精神分析の起源に関わるような、神話的な形式があると考えたんだね。いや、それだけじゃない。彼はこの神話に、自分の個人的な気持ちを重ね合わせたんだ。そう、フロイトは、自分の母親への愛情と父親への嫉妬に気づいていたんだね。そして、その感情が幼児に共通のものではないかと考えたんだ。つまり、すべての個人はこの段階を経験するんだけど、大きくなると忘れてしまうだけなんだ、と。
 ラカンはこのテーマを、さらに徹底的に追及した。彼によれば、生後間もない乳児は、母子が一体化した万能感あふれる空間の中で、とても満ち足りた時間を過ごしている。まだ言葉も知らない、それゆえ「自分」と「母親」の区別もつかないような子どもの経験する世界は、混沌とした原始のスープみたいなものだ(と、想像されている)。そのとき母親は「世界」そのものだ。そこでは、願ったことは何でもかなう。イメージはすべて実現する。万能感というのはそういうことだ。しかしやがて、この密室的で近親相姦的な関係に、「父親」が割り込んでくる。ママを独占しちゃいかんとばかりに、ジャマしにやってくるわけだ。
 子どもは父親の存在に触れることで、いろんな辛いことに気づかされる。まず子どもは、母親に父親のようなペニスが存在しないことを発見する。それまで子どもは、母親のことを、まるで自分を守ってくれる万能の存在であるかのように感じていた。この「万能の母親」は、ファリック・マザー、すなわちペニスを持った母親という、象徴的なイメージで表現される。こういう母親のイメージが、子ども自身の万能感を支えていたわけだ。ところが、万能なはずの母親に、よく見ると父親のようなペニスがついていない。これはすごくショックなことなんだ。このとき子どもは、万能の母親というイメージを断念しなきゃならなくなる。それは母親=世界と自分とのあいだに、突如よそよそしいギャップが口を開けるような、不安と恐怖に満ちた体験に違いない。そこで子どもは、母親に欠けているペニスを補完するために、自分自身が母親のペニスそのものになりたいと欲する。
 ちょっと脱線するけど、小さい子どもの欲望は、しばしば「なりたい」という形で表現されるよね。僕自身、はっきりした記憶はないけれど、小さい頃によく「大きくなったらクジラになりたい」と公言してはばからなかったそうな。自分というものが十分にできあがっていない子どもは、欲望をあらわすにも「持つ」と「なる」の区別が曖昧なんだね。それにしてもクジラになりたいとは、まさに母(=海)のペニスでありたい欲望がにじみだす表現だなあ、とか自己分析しちゃったりして。
 閑話休題、母親のペニスになるという幻想に、子どもはながく留まることはできない。なぜなら、母親が本当は別のものを欲していることがわかってしまうからだ。母親が欲しているもの、それは父親のペニス。もう一度念を押しておくけど、この話をきみの実の両親にいちいちあてはめなくていいからね。これは子どもの内的な幻想の話なので、ペニスはたとえば、財産とか権力とか、そういうものの比喩でもあり得る。ここに至って、子どもはペニスになることをあきらめる。そして母親が求めている父親に同一化しつつ、その象徴的なペニスを持ちたいと願うようになる。ペニスそのものであることはかなわず、父親そのものになることもできない。ならばせめて、父親のペニスの代理物を所有することで、母親=世界と自分との間に生まれた絶望的なギャップを埋められるという可能性に賭けようというわけだ。そう、ここに至って、はじめて「象徴」が必要とされることになる。
 子どもはペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで、母親=世界におけるペニスの欠損を補完する。これはしかし、ペニスの実在性をあきらめて、その模造品で満足しようという、大きな方向転換を意味している。だから、象徴を獲得するということは、存在そのものの所有はあきらめる、ということと同じことを意味している。
 このあきらめのことを「去勢」と呼ぶ。そう、ペニスをとっちゃうことだね。エディプス期における「去勢」こそが、人間が人間になるための、最初の重要な通過点なんだ。ここをくぐり抜けて、子供は言語を語る存在、すなわち「人間」となるんだから。なぜかって? ファルスこそは、あらゆる言語(=シニフィアン)の根源におかれた特権的な象徴にほかならないからだ。だからファルスってのは、さっきペニスの模造品って言ったけど、実体が伴わないかわりに、なんにでも形を変えられる特性を持っている。この変幻自在さが、そのまま言葉の自由さ、柔軟性につながっている。
 また肝心なところで紙数が尽きた。次回は去勢について、もう少しくわしく語ろう。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。