さて、この連載では「シニフィアン」という言葉がこれから何度も出てくるだろう。さしつかえない場所ではふつうに「言葉」とするけれど、ある程度以上厳密に語る場面では、どうしてもシニフィアン、つまり言葉の「意味」ではないほうの、純粋に「音」としての側面を押さえておく必要がある。繰り返しになるけど、シニフィアンなんていうややこしい言い方をわざわざするのは、言葉と記号を区別するためなんだ。前回もちょっとふれたように、記号にはすべて意味がある。意味がないものは記号ではない。無意味な記号もあるじゃないかって? それは、まだ意味が知られていない記号か、あるいは「無意味」そのものを意味する記号に違いないよ。そして、この場合、記号に意味を与えているのが言葉なんだ。記号は、言葉によって保証されなければ、意味を持つことが出来ない。「バツ」が否定を意味しているのは、その意味を言葉をつうじて教わったことがあるからだ。
 ところが言葉には、必ずしも「意味」がない。無意味な言葉というのはいくらでもある。いちばん身近な例は「挨拶」かな。「おはよう」とか「おやすみ」とかね。もうこれは、直接的にはどんな意味も担っていない。「やあ」とか「よっ」とかの呼びかけに至っては、もっとも意味がそぎ落とされて、ほとんど鳴き声みたいな発声だ。まえに言葉は「意味」ならぬ「存在」の代理物なんだって話したけど、挨拶にもそんなところがある。何の意味もないけれど、自分の存在をアピールする機能はあるからね。挨拶は挨拶を誘発する機能はあるけれど、それは行為遂行文とは言い難い。状況によっては、挨拶が親密さを意味していたり、逆に敵意を意味したり、さまざまな多義性を帯びているからだ。ということは、つきつめれば自分の存在の代わりに差し出す言葉、それが挨拶ということになるかな。
 さて、これまで何度か出てきた言葉、「象徴界」っていうのは、こういうシニフィアンが織りなす複雑なシステムのことだ。ラカンによれば、この象徴界の作用は、人間生活の全般に及んでいる。その作用は意識されることもあるけど、無意識の部分がずっと多い。ラカンの有名な言葉に「無意識は言語として(のように)構造化されている」とか「無意識はシニフィアンの宝庫である」っていうものがあるけれど、それはだいたい、このへんのことを意味していると考えてくれて良い。え? 納得いかないって? なるほど、無意識には「イメージ」もあるじゃないか、というわけか。そうだよね、もしたとえば、夢が無意識の表現であるのなら、夢の豊かなイメージはどこから来るのか? っていう話になってしまう。そう言いたくなるのも、もっともだ。
 でもね、フロイト−ラカンの素晴らしさは、まさにこの点にあるんだなあ。彼らは、純粋なイメージなんてものは存在しなくって、イメージは常にシニフィアンから二次的に作り上げられるものだと考えている。これは、かなり画期的な発想なんだ。それというのも、誰だってイメージの方が言葉よりもずっと豊かだ、と考えがちなんだから。「言葉にならない」「言葉を超えている」「筆舌に尽くしがたい」なんていう具合にね。こんなふうに、言葉よりもイメージのほうが具体的で豊かであるという発想は、僕たちにとっては日常的なものだ。でも、本当にそうなんだろうか?
 まず忘れてはならないことは、人間のあらゆる体験において、ほとんど常に言葉が先行している、ということ。僕たちは自分の周囲を見渡して、部屋の中のパソコンだの机だのテレビだの本棚だのがあることを瞬時に認める。こういうことが可能なのも、認識に先立って僕たちが「パソコン」「机」「テレビ」「本棚」という言葉を知っているからこそなんだ。もし言葉が存在しなかったら、僕たちの認識はもっと時間がかかるはずだし、これだけ正確な認識が出来るかどうかも怪しいものだ。なぜなら、僕たちの周囲に広がる世界の中で、こういった個々のアイテムを分離して認める場合にも、言葉の助けが必要となるからだ。たとえば机と、机の上の本とを区別して認識すること。これを「分節」する能力、という。もし分節することが出来なかったら、事態はものすごく混乱するだろう。なぜなら、机そのものと、本が乗っかった机とを、僕たちは別の物体として認識してしまうかも知れないからだ。
 もっとも、この程度の分節ならば、言葉でも記号でも可能だし、だからこそ動物にも外界の認識は可能なわけだ。人間にいちばん特異なのは、まさにこうした分節機能を逆用して、まったくあらたなイメージを作り上げることができるという点だ。いちばんわかりやすい例は、モンスターの造形かな。怪物を作るには、いくつかの「文法」があると聞いたことがある。たとえば、「巨大にしてみる」こと。ゴリラを巨大化させただけの「キングコング」が良い例だね。「なにかを欠落させる」こと。これは日本の妖怪「一つ目小僧」やギリシャ神話の「サイクロプス」が典型かな。「部分的に拡大する」ことの例としては、「ろくろ首」があるね。「身体パーツを増殖させる」ものには「百目」とか「三面怪獣ダダ」(ちょっとマニアックかな?)とか。で、いちばん多いのが「異質なものの組み合わせ」だ。いろんな動物から引用した「鵺(ぬえ)」なんかまさに典型だけど、人魚とかペガサスとか、ケンタウロスとか「件(くだん:牛の頭を持つ人間)」とか、いくらでも例がある。
 さあ、もうわかったよね。こういうモンスターたちは、ほぼすべて、人間が言葉をさまざまに操作することで造形されているんだ。ある意味でイマジネーションの極限とも言うべきモンスター造形が、実は言葉の力に依存していたということ。この事実はとっても重要だ。ちょっとイメージからは外れるけど、日本を代表するモンスターである「ゴジラ」のネーミングって、「ゴリラ」+「クジラ」から出来たという「伝説」がある。本当か嘘かは知らないけど、もし事実だとしたら、これなんかまさに「シニフィアンの圧縮」がイメージを生んだ最高の例といえるかもしれない。
 そんなわけだから、イメージの自由を強調したい人は、言葉に依存しない純粋なイメージの例をみつけなければならない。でも、捜してみれば判ると思うけど、そういうものは本当に少ないよ。学生時代にユングにはまったこの僕が言うんだから、間違いない。

 さて、言葉、すなわちシニフィアンが織りなす象徴界の機能が、人間生活のかなり深いレヴェルまで浸透していることは理解してもらえたと思う。ところで、象徴界の機能が最大限に発揮されるものの一つが、なんといっても虚構や物語の世界だろうね。みんな、こういう物語の世界についても、やっぱりイメージが優先すると考えているでしょう? でも、本当はそうじゃないんだ。あるイメージをぽん、と提出されても、それが現実のものか虚構のものか、はっきり区別することは不可能だ。このことの一番良い例は、ネッシーや雪男の写真だろうね。ああいうものは、それが与えられる状況や文脈次第で、いくらでも真偽が曖昧になってしまう。ある物語が現実のものじゃなくて虚構のものであることを宣言できるのは、これはもう「言葉」だけなんだね。
 僕たちは、言葉で語られたことや物語を、原則的には虚構のものとして受け止める習慣がある。なぜそう言えるかって? ある物語が事実に基づいている場合、そこには必ず「ノンフィクション」とか「ドキュメンタリー」とか、要するに「これは事実です」という断りが入るよね。小説や童話に「これはフィクションです」といちいち断ることは少ない。ところが逆に、映画や漫画、ドラマなどのイメージ的な表現ほど「これはフィクションであり、いかなる個人や団体とも関係がない」という断りが入ることが多いでしょう。こういう些末な事実から、僕たちが言葉とイメージをどんなふうに区別して受け止めているか、その無意識の習慣が見えてくる。もう一度整理してみよう。僕たちはイメージを事実に近く受け止め、言葉は虚構に近く受け止める。これは、イメージや言葉の起源を考えると、当然とも言えることなんだ。
 僕たちが最初に獲得するイメージは、ラカンによれば、自分の鏡に写った姿だ。このことは、いずれくわしく解説しよう。今はただ、そういうものなんだ、と思ってくれればいい。実はこの時以来、人間はずっと、自分の鏡像を起点とするさまざまなイメージに騙され続けている、というのがラカンの主張だ。自分のことを、鏡に写ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃れられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要なんだ。言葉の支配から逃れたイメージは、それが事実とも虚構ともつかないために、危険きわまりないものになる。酒鬼薔薇事件の時の、あの声明文に付け加えられた風車みたいな記号とか、ちょっと前になるけど、校庭に机が「9」の字に並べてあった事件とか、ああいう得体の知れないイメージは、それだけで衝撃的だし、記憶に残る。いずれも当初は、意味がわからない、つまり言葉と結びつきを持たないイメージだったわけだけど、まさにそのために、僕たちは強い不安をかき立てられたのだ。
 言葉で語るということは、さっきも言ったように、虚構化のための一番有効な手段だ。なぜだろうか? 第3回でもちょっと説明したけど、最初の言葉は「存在」の代わりに、それを埋め合わせるために獲得される。たとえば「ママ」という言葉は、お母さんを呼ぶためだけの言葉じゃない。それはなによりも、目の前にいないお母さんの代わりに使用される一種の痕跡、音声による痕跡のようなものだ。これは見方を変えると、「母親の不在」という現実を、「ママ」という虚構で覆い隠して安心するための手段でもある。言葉が本来虚構的なもの、という意味は、これでわかってもらえたよね。でも、それで終わりじゃない。僕たちは、言葉を獲得する瞬間に、決定的な何ものかを失っているんだ。
 「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。僕たちは「現実」について言葉で語るか、あるいはイメージすることでしか接近することができない。ラカンはこのあたりのことを「ものの殺害」なんて、ぶっそうな言葉で呼んでいる。僕たちは「ママ」という言葉によって母親の不在に耐えられるようになった代わりに、たとえ目の前に母親がいても、母親の存在そのものにふれることはもうできない。そう、「ママ」と呼ぶことで、僕たちは「現実の母親」を殺したからだ。
 でも、だからといって嘆くにはあたらない。人間のあらゆる文化は、現実を言葉のシステムに置き換えること、すなわち「象徴界」を獲得した時点から、はじめて可能になったものだ。むしろ、その獲得がうまくいかなかった精神病者は、常に現実に接しているために苦しめられているとも考えられる。
 平和で文化的な生活とひきかえに、僕たちは「現実」そのものを捨てた。もう「現実」は、決して僕たちのものにはならない。いや、たった一つだけ、誰にでも現実を手に入れられる瞬間がある。それは僕たちが「死ぬとき」だ。それじゃあ困るって? でもそれは、人間が人間であり続けるためには、しかたのないことなんだ。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。