突然だけど、ちょっとした実験につきあってもらえないかな。なに、痛くないし、すぐ終わるから。実は、少しばかり「連想」をやってみてほしいんだ。連想っていうのは、そう、「連想ゲーム」とかの連想だ。ただし、条件を三つつけよう。できるだけ自由に連想してほしい。前の言葉と関係がないほどいい。それと、あまりゆっくり考えず、できるだけ素早く連想してほしい。それから、思い浮かんだ言葉は、恥ずかしがらずになんでも口に出してみること。じゃあ、やってみよう。正直にやってくれよ。できればテープか何かに録音するといい。
 どうだった? 僕はこんな感じ。「どんぐり、山鳩、空、青リンゴ、金魚、睡蓮、みつばち、花屋、かごの鳥、代返、どじょう、近代、桜井、ロマン、蟹、サプリメント、だんじり、土間、作業、鈍感」ところで途中に出てくる「桜井」って、誰だろう。って、聞かれてもわかんないか。なんでこんなことをしてもらったかっていうと、「自由に連想を働かせる」っていうことが、実はあんがい難しくて不自由なことを知ってほしかったから。確かに、人間の思考は、とても自由に見える。つまり、権利上は自由だ。でも、事実上は、すごく不自由なものなんだ。とくに、あれこれ思考をいじくり回す時間を奪われてしまうと、思考は本来の不自由さをいっそうあらわにしてくる。不自由であると同時に、意外な連想まで飛び出して来たりする。だからこのゲームは、できるだけ一人でやったほうがいいよ。思わぬ心の秘密が飛び出してくることがあるからね。
 精神分析の知識がある人は、これが「自由連想法」のまねごとだって、すぐにわかっただろう。自由連想っていうのは、フロイトが発明した分析のための技法だ。あるときフロイトは、面接していた自分の患者から「せんせい、いちいち話の腰を折らないで、もっとおれの好きに話させてくんないかな(大意)」と文句を言われて、「ふん、そんな生意気言うなら、もうこっちからは何にも聞いてやらんもんね。とことん自由に喋ってもらうもんね(推測)」と考えて編み出された(ただし、ある作家の「心に浮かんだことをすべて書き記す」という言葉も遠いヒントになってはいるとのこと)。カウチに寝そべって、その背後に分析家が座ってというおなじみの風景は、だいたい自由連想をしているシーンと思ってくれればいい。
 ちょっと脱線するけど、フロイトって、そんなに治療はうまくなかったらしい。だからしょっちゅう失敗もする。で、失敗を転じて素晴らしい創造性を発揮する。まさに失敗の天才だ。「自由連想法」だって、いまじゃ精神分析の根幹をなす、画期的な方法だったわけだしね。フロイトもここに至る以前は、催眠などを用いてトラウマ体験を思い出させ、忘れられていた感情を解放することで治療をするという「カタルシス法」を行っていた。でも、この方法ではうまく行かない患者が多かったり、患者が治療者に依存的になりすぎたりと、あまり良い結果にはならなかったんだね。もっとも、フロイトは催眠が下手だったというから、ここでも失敗が良い結果につながったわけだ。
 催眠よりも自由連想のほうが優れているのは、イメージから言葉へ、という本質的な変化がそこで起こったからだ。催眠は、なんといってもイメージのほうに重点がある。それだけ容易だったり、判りやすかったり、さらにいえば効果的だったりする点もあるんだけど、そのぶん「分析」も浅くなってしまいがちだ。イメージって無意識に迫る場合には、けっこう障害になりやすいからね。ところが自由連想は、言葉だけに頼らざるを得ないぶん、イメージのバリアを越えて無意識に到達しやすくなる。
 余談だけど、実を言えば、いま精神医学の主流は、ふたたびイメージ的なものに戻りつつあるのも事実だ。とくにトラウマの治療などは、そのほうが実際に効果的でもあるから、これは当然のことだ。でも、ここではっきりさせておくけど、僕が重視している「分析」の立場というのは、治療よりも理解と解釈に力点がおかれている。だから僕は、治療者としてはまったく分析はしないけど、患者理解や人間一般の理解においては、まだまだ分析の力は有効であると考えているってわけだ。
 さて、だいぶ脱線しちゃったね。そろそろ話を戻そう。自由連想のきっかけは、なんでもいい。単語でも、自分の思いついたイメージでも、あるいは夢の中の出来事でも。ちなみにフロイトは、自分の夢を分析するために、自由連想を用いたらしい。それと、自由連想法は、当時からさかんだったシュールレアリズム運動にも影響を及ぼした。シュールレアリストたちは、無意識が汲めどもつきない創造の源泉に思えたんだろうね。で、「自動書記」という、まあ日本には古来からある「お筆先」みたいなもんだけど、思いつくままどんどん連想だけで言葉を並べていくという手法に利用したわけだ。たしかアポリネールとかブニュエルとかの応用が有名だったと思うけど、作品として成功したものは多くないし、いまはすっかり、廃れてしまっている。なぜかって? そう、これが最初に話した「連想の不自由さ」ゆえなんだね。
 連想は、常に言葉でなされる。そう、たとえイメージの連なりにみえたとしてもね。実際のところ、意味やイメージは言葉の副産物なんだ。このへん、いつかくわしく説明するから、今はそうなんだと理解しておいて。
 じゃあ、言葉はどんなふうに連なっているか? 意味で? いや、そうじゃない。意味というのは、実は言葉のイメージ的な側面に過ぎない。言葉の本質は、「音」にある。そう、いわゆる「シニフィアン」だ。そろそろやっかいになってきたね。でも簡単に済ませておこう。いいかい。言葉には二つの側面があると考えて欲しい。ひとつはシニフィアン、つまり音で、ひとつはシニフィエ、つまりイメージ(=意味)だ。言葉とその対象物、というふうに考えてはいけない。それだと、言葉はたんなる「記号」になってしまう。ここで大事なことは、シニフィアン(音)とシニフィエ(イメージ)の結びつきには、なんの必然性もないこと。それからシニフィアンが喚起するイメージは、かなり幅があることだ。ハトという言葉が、ハトという鳥のイメージと同時に、「平和」とか「祝福」のイメージにもつながるようにね。
 言葉は記号じゃない。むしろ言葉はシステムだ。記号はその対象と1対1の固定された関係を持つことで、独自に意味を持つことができる。言い換えるなら、記号どうしはなんのつながりも関連性も持っていない。でも、言葉は違う。言葉は、最初の回でも話したように、「象徴界」というシステム全体として機能している。単語が意味を持つのは、あくまでも他の語との関係性、すなわち文脈の中でしか可能にならない。逆に言えば、文脈さえわかっていれば、未知の言葉、つまり無意味な言葉であっても、なんとなく意味が見えてくる場合もある。たしかあれは、一般意味論のS.L.ハヤカワ「思考と行動における言語」(岩波書店)に出てくる例だったと思うけど、「オーボエ」という言葉の意味を全く知らなくても、その単語が出てくる文章例をたくさん読めば、それが楽器であることや、どんな形状をしているかがなんとなく判ってくる、という話があった。記号ではこれは無理。もちろん記号を文章の中において、単語と同じように扱えば別だけれどね。
 この「象徴界」の中で、シニフィアンは相互に隠喩的な結びつきを持っている。それはイメージを通じた結びつきだったり、あるいは音が似かよっているための結びつきだったりと、さまざまだ。でも、「音」による結びつきは、ことのほか重要だ。なぜなら、僕たちはこちらのほうは、しばしば忘れてしまっているからだ。言葉のつながり、つまり「連想」が、思いがけず不自由だったり、意外な連想が飛び出してきたりするのも、こうした「音」による結合が関与してくるせいだったりする。……うーん、ちょっとわかりにくいね。
 フロイトは、こういう音だけ似通った言葉の結びつきが、僕たちの意識に大きな影響を及ぼしていることを発見した。「日常生活の精神病理学」から、例を一つだけ引いておこう。あるときフロイトは、自分の患者にジェノバの近くにある保養地を紹介しようとして、どうしてもその名前が出てこなかった。その土地についての、ほかの記憶はしっかりしているのに、地名だけが出てこないのだ。やむをえずフロイトは、患者を待たせて妻に尋ねた。「ほらなんだっけ、N先生の診療所があって、例の奥さんが長いこと療養してたあそこの土地は……」「忘れちゃうのも当然よねえ。だってネルヴィNerviっていうんですもの」要するに、フロイトは日々つきあっているNerven(神経)にいい加減うんざりしていて、それと似た音の土地の名前まで抑圧してしまっていたわけだ。こういう「ど忘れ」や「言い間違い」の例は、フロイトの本にたくさん出てくる。
 連想とは関係ないじゃないかって? いやいや、そんなことはないよ。ここで大切なことは、人間は必ずしも「忘れたいこと」だけを忘れるんじゃあないってこと。むしろ忘れられるのは、一番忘れたいことと発音が似通った単語のほうだったりするわけだ。つまり、忘れたかった単語と、実際に忘れられた単語とは、意味じゃなくて、発音を介してつながっているということだ。どうかな? 言葉が意味だけのための道具じゃないってこと、これでわかってもらえたかな?
 似通った音による結びつきは、こういう場合にみられるだけじゃない。たとえば文章や詩で韻を踏んだり、俳句が五七五だったり、あるいはラップのライムが調子よかったりと(あ、ちなみにrhymeってのは「韻を踏む」ってことだから、けっこう古典な技法だね)、文章や歌にも音による快楽ってのはある。これを単純に、言葉の音楽的な側面とか、意味を越えて感覚に訴える、とか言って欲しくないんだなあ。何度も言うけれど、普通の会話とかなら、だいたい言葉の「意味」の側面が大事になってくる。でも、表現の分野では、意味よりも音が前に出てくることも多いんだ。そして、「音に意味を従わせることの快感」というものが、そこには確実にあるんだね。
 もちろん、これをはっきりと指摘したのもフロイトだ。彼は「機知──その無意識との関係」という論文で、なんで駄洒落がおかしいのかを、大まじめに分析している。たとえば当時、医者の間で良く知られていたという冗談。
 ──若い患者にマスターベーションをしたことがあるかどうか尋ねると、返ってくる答えはきまって「いや、そんなことは一度も(O,na,nie)」
 このドイツ語は、だいたいローマ字読みでいい。まあ、解説は不要だよね。
 フロイトは、こういう駄洒落みたいな例をいっぱい出してきて、こういう機知によって語られることには、ふつうなら抑圧されやすい内容が、チェックされずにすっと出て来やすいのだと主張する。こうして抑圧を取り除くことは、緊張の解放につながり、笑いをもたらすわけだ。まあ、もちろんそればかりじゃない。こういう駄洒落は、日本ではむしろオヤジギャグとして軽蔑の対象になってるくらいだから、一般化しすぎは危険かも知れない。でも、フロイトが指摘したような側面があることも、間違いない。
 ちなみにフロイトは、機知が成立するためには、笑われる対象となる人物のほかに、笑ってくれる第三者が必要なのだと指摘している。オヤジギャグでも、いちいち大受けしてくれる人がそばにいてくれれば、面白く聞こえることもあるしね。これをまんま応用したのが、アメリカのコメディ番組なんかでよくある、「笑い声」のSEね。ギャグがおかしくも何ともなくても、笑い声がかぶさると、ついクスっと受けてしまう。日本で言えば、わざとスタジオのスタッフの笑い声をいれるとか、あと最近では、うっとおしいほど定着した、字幕によるセリフの強調もそのヴァリエーションだろう。この、笑っている第三者につられるようにして笑う、という行為は、実は僕たちが「象徴界」に参加しているなによりの証なんだけど……まあそれは別の機会に話そう。
 いや、日本の場合、第三者の導入方法はもっと高度かもしれない。あまりおかしくないボケでも、適切なツッコミで爆笑に転ずる、なんてこともあるしなあ。いやあ、突飛な例えと言わんでください。僕は真面目に言うのだが、ボケとツッコミの関係って、すごく精神分析的なものだ。まず曖昧な言葉があり、その分節と解釈があり、あらたな文脈の創造がある。これ、構造的には精神分析そのものじゃないか? 笑いの機能として、「文脈の衝突、ないし転換」を重視する僕としては、すぐれたボケ−ツッコミ関係のエッセンスを治療に応用できないものか、という期待すらしているほどだ。
 それはともかく、今回のタイトルに戻るなら、言葉はとても大きな不自由さを抱え込んでいる。単語一つでは何も意味し得ないこと、言葉同士のつながりは「発音」に縛られていること、このため思い出すにも忘れるにも、自由なコントロールがきかないこと。でも、そういった不自由さこそが、言葉に記号を越えた大きな自由と創造性をもたらしていることも、また事実なんだ。
 今回はフロイトの話ばかりだったけど、どれもいずれ、ラカンにつながることだから大丈夫。でも、このあたりに関連したラカンの言葉も、少しばかり引用しておこうかな。

・シニフィアンは機能的ではない。
・人間はシニフィアンに住まわれている。
・シニフィアンが意味を持つのは、別のシニフィアンとの関係においてのみである。
・意味が可能になるのは、シニフィアンの連鎖においてである。
・真理は、シニフィアンの連鎖によって形づくられる。
・話すことは、シニフィアンの効果を導入することである。

 まだちょっと難解かもね。でも、言葉、シニフィアン、意味、なんてあたりを理解しておくと、ラカンはぐっとわかりやすくなる。だから、この話題は、もう少し引っ張っておきたい。そんなわけで、シニフィアン関係、もう少し続けます。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。