さて、前回は言葉と心の関係についての話だった。つまり、心は言葉で出来ていて、そのために途方もない自由さを得たけれども、果てしない空虚さをも抱え込んだ、ということだ。これ、ラカンの精神分析にとっては、かなり基本的な視点だから、しっかりおさえておいて欲しい。その上で、今回は別の話をしよう。そう、「欲望」についての話を。
 「欲望」もまた、精神分析における重要なキーワードだね。精神分析というのは「欲望の科学」だ、という人もいるくらい。僕も条件付きで、ほぼそれに賛成だ。
 言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れる。それはすごく重要で決定的なことだ。おおざっぱに対比するなら、動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「欲望」に従う。そんなふうに言うことができるだろう。ここで「本能の欠如」という言い方に引っかかった人も居るかも知れない。人間についても「生存本能」とか、「母性本能」とか、良く言うものね。日常的にも「本能的に〜」という表現が普通に使われているし。
 でも、ここで考えてみて欲しい。動物の本能というのは、遺伝子にプログラムされた特殊なソフトウェアのことだ。これがあるから動物たちは、誰に教わったわけでもないのに、異性と出会えば性行為に及んだり、巧みに獲物を捕らえたりすることができる。この意味では、動物はとても精巧にできたマシーンみたいなものだ。つまり、ある状況下での反応や行動パターンが先天的にプリセットされている、という意味で。だからロボット犬AIBOも、その意味では動物と同等と考えていい。
 それじゃあ、人間はどうか。もちろん、人間は動物とはちがう。だいたい人間は、教わらなければ何もできない。言い換えるなら、あらゆる行動を、後天的に、学習によって修得する必要があるのだ。そして人間の学習は、そのほとんどが言葉の助けを借りて行われる。だからもちろん、「欲望」も言葉に根ざした学習の産物なのだ。
 欲望と欲求の違いを考えるうえで、ここでは「性欲」を例にとろう。動物の性欲は、「発情期」という言葉があるように、タイマー付きのプログラムとして遺伝子に書き込まれている。発情期に異性と出会ったら、どんなふうに誘惑し、どんなふうに性行為に及ぶかが、はっきりとパターンとして定まっている。だから、性行為は完全な満足で終わるわけだし、発情期以外には性欲そのものが湧いてこない(まあ、「ボノボ」って猿みたいな例外もあるけどね)。
 で、人間はどうか。まず人間は年中発情期ですね。これを否定する人はいまい。性行為の知識は先輩とかAVなどによって学習されますね。異性との出会いから性交に至るまでのパターンは「恋愛」の名のもとにきわめて複雑な洗練をとげています。そして、性行為。ここにもいろんなパターンがあるけど、共通していることは、人間が性行為によって完全に満足することがあり得ないということ。
 よく、猿にオナニーを教えたら死ぬまでやり続ける、と言われる。これ、僕はホントか嘘かは良く知らない。でも、こういう言い方は、すごく精神分析的な意味で、人間を特権化しているんだね。この言い方にはもちろん、その裏側に「人間はオナニーを死ぬまで続けるなんてことはしない。サルってバカだね」という共通の認識がある。
 それでは、なぜ人間はオナニーし続けることができないか。男性を例にとるなら、射精の後で虚脱するからだ。この射精後の空虚感は、30年くらい前なら罪悪感で説明できた。なにしろオナニー害悪説は根強かったし、そもそも昔は「自涜」って言ってたんだからね。さすがに今は害悪説のような「迷信」は消えたけど、それでも射精後の空虚感は変わらず存在する。僕の考えでは、この空虚感こそが、欲望本来の空虚感なんだ。射精によって欲望の生理的側面が満たされたかに錯覚するわずかな時間だけ、僕たちは性欲の本質的な虚しさを、ほんの少しかいま見ているってわけだ。
 さて、もう一度確認しよう。欲求は満足することが出来る。でも欲望は、決して満足しない。そして、人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。たとえば「資本主義」システムがそうだ。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、成立のための根拠になっている。だから人間の欲望のあり方と、すごく良く似ているわけだ。もちろん「だから資本主義がすばらしい」とかいう、ベタな話じゃないけどね。
 あるいは、「嗜癖」の問題も欲望と関係がある。アルコール中毒、薬物中毒、ギャンブル中毒と、ほとんどの人間の営みは中毒、つまり嗜癖に結びつく。これもまた、欲望の際限のなさがそのまま病理としてあらわれたものと考えていい。現代人は、誰もが多かれ少なかれ、こうした嗜癖性を抱えて生きている。いや、そもそも嗜癖に至るような過剰な欲望がなかったら、文明社会もあり得ないわけだしね。いわゆる未開社会の多くは、いろんなしきたりや儀礼などで欲望に幻想のタガをはめている。それは社会の自由な発展を犠牲にして、安定と存続のほうを取ったと考えることもできる。でもそうなると、いったいどちらが賢いかなんて、誰にもわからないよね。
 ともあれ、欲望の特徴が、その本質的な充足の不可能性にあることはわかった。それでは、その欲望はどこから来るのか。
 ラカンの言った言葉でいちばん良く引用されるのが「欲望は他人の欲望である」というものだろう。そう、ラカンは欲望が僕たちの内面にあらかじめ備わっているわけじゃなく、常に他人から与えられるものだ、ということを強調したのだ。これにはいろんな言い回しがあって、ほかにも「欲望は、それを他人に認められることで初めて意味を持つ」というのもある。いずれにしても、完全な孤独にあっては、欲望は生じない。みんなが欲望を持っていると信じられるから、僕も欲望を持つことができるのだ。
 これはたぶん、いちばん実感的に判りやすいところじゃないかな。たとえば、もういらないから捨てようと思っていたオモチャを、友達が「いらないならちょうだい」と欲しがったとたんに、すごく惜しくなったりすることってあるよね。社会的にみても、あるものが集団的な欲望の対象となる、つまり「ブーム」になる背景には、こういう欲望のメカニズムが作用していることが多い。ファービー人形に行列が出来たのは、なにもファービーがものすごく優れたオモチャだったからじゃなく、単にみんながそれを欲しがったからだ。「他人が欲しがっている」ということは、とりわけ現代にあっては強烈な欲望の根拠になる。そうでなきゃ、そもそも「サクラ」って商売がなりたたない。
 ここで挙げた例は、本当はちょっと正確じゃない。間違いでもないけどね。でも、ラカンの言おうとしたことには、もっと抽象的な次元も含まれている。そう、欲望と言語の関係だ。でも、それについては、また次回ということにしよう。
 さて、いまから10年くらい前、西武百貨店のポスターに、こんなコピーがあった。
 「ほしいものが、ほしいわ」
 糸井重里によるこの名コピーは、欲望の本質をとてもよく表している。
 高度成長期には、みんなが「欲しいもの」を持っていた。まるで車とかカラーテレビ、冷蔵庫といった、共通の欲望が実体として存在するかのようだった。でも、社会が成熟し、安定期に入って、僕たちは物質的には満たされてしまった。もう僕たちには、いますぐ切実に欲しいものなんか何もない。せいぜい「おいしい生活」をまったり楽しむことを、ささやかに願うくらいだ。でもそんな暮らしの中でも、僕たちはひそかに憧れている。そう「何かを切実に欲しがる心」に。
 こーゆうココロの変化が、なにか時代の病理のせいみたいに言われたこともあるが、必ずしもそうじゃないんだな。むしろ、これこそが人間の欲望の本質にもっとも近い事態なのかもしれない。
 思うんだけどさ、人々がすごく貧しい時代って、誰も精神分析なんかに用はないんだよね。だって、みんな食べることで精一杯だし、そこでは欲望は限りなく欲求に近いものになるわけだから。でも時代が進んで、だいたいの人が衣食足りるようになってくると、人々の心も、その精神分析的な本質をあらわにするようになってくるんじゃないか。いや、物質的な充足だけじゃない。僕はこれに加えて、コミュニケーション的な充足という面も大きいと思う。どういうことかって?
 携帯電話やインターネットは、あらゆる人に、コミュニケーションに参加するチャンスを与える。そう、もはやコミュニケーションに辺境はない。誰もが、その意図さえあれば他人とつながることが出来る。この変化は、あんがい決定的なものなんだ。だってそうだろう。社会が成熟していく段階の中に「物質的に満たされても、心が満たされない」という過渡的な状況がある。でも、これは要するに、ネットワークが不備な時代には、コミュニケーション弱者の孤独がいっそう深まりやすくなるということでしょう。現代のように、ネットワークが幾重にも張りめぐらされて以降は、こうした孤独は意志的に選択されなければ成立しなくなってくる。
 コミュニケーションのネットワークが発達すると、コミュニケーションだけで満たされてしまう人たちが大量に現れてくる。携帯電話のせいでCDが売れない、とかはそういう現象のあらわれだ。実はこれも、欲望の満足を先送りしているに過ぎないんだけど、「誰かと話をする」っていう行為は、先送りのための最良の手段なんだよね。そうなると、いよいよ「欲望の無根拠性」という、ラカン的な事態がはっきりみえてくる。
 前にも話したけど、なんだか最近の世の中って、ラカン的な解釈があまりにもベタに当てはまるような事象が多すぎるような気がする。田中真紀子のヒステリー性とか、田代まさしの自滅的な「死の欲動」とかね。いろんな進歩だの進化だのの結果、僕たちは物質的な貧困、コミュニカティブな貧困、その双方から解放されつつある。これとともに、僕たちの欲望はかぎりなく精神分析的なものになるだろう。そう、フロイトが言ったように、それは「満たされない欲望を持ちたいという欲望」なんだ。「ほしいものが、ほしい」っていうのは、そういうこと。いまや僕たちが求めるのは「満たされない心」そのものなんだ。最近脱税でつかまった、野村って有名なおばあさんがいたけど、彼女の人気のかなりの部分は、その「満たされなさ加減」に人々がシビれたせいじゃないかな。
 で、もっと本質的な問題、欲望と言葉との関係については、また次回ってことで。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。