さすがにもう言い訳のネタも尽きた。黙って続きをはじめるとしよう。今回は「転移」の話の続き、後編だ。
 人間の心の面白さはいろいろあるけれど、僕はなんといっても、人が人から影響を受けたり、それでいろんな変化が起こったりする現象がいちばん面白い。人が人を好きになるという「変化」も、その意味ではすごく重要で面白い変化だよね。だけど、そんなに強烈な体験じゃなくっても、人間は色々と変化するものだ。なかでも転移はもちろん、その最たるもののひとつ。なんたって治療に応用できるくらいなんだからね。これをたとえば、人と人との間で何か目に見えないものがゆきかっている、とイメージしてみよう。
 ラカンによる転移の理解は、ごくおおざっぱな例えでもって言えば、人と人との間で情報の移動が起こるような事態を意味している。たとえばフロイトは、治療中に起こるテレパシー的な現象について述べているんだけど、ラカンによれば、これは転移の結果生ずることになるんだね。たとえば治療中の二人の患者が、転移の結果として、ほとんど同時に同じ症状を示したり、同じ記憶を思い出したりすることがある。これは二人がたまたま、同じ情報のネットワークに組み入れられてしまった結果なのだ、とラカンは説明する。そのネットワークというのは無意識であり、ということは、要するに象徴界のことなのだ。このあたり、ラカンはシステム論的な説明をこころみようともしている。
 もちろんここで「情報」と呼ばれているものは、別のところでは「知」と呼ばれたりするような言葉の断片だ。そういうものが、象徴界という巨大なネットワークの中で、人と人とを結節点として巡っている様子をイメージしてみよう。もちろん、このイメージはかなり比喩的なものなんだけど、それでもラカンによる転移についての理解を、少しだけ簡単にしてくれるだろう。
 余談だけれど、こういうテレパシー現象みたいなものを、前回いろいろくさしたユングという精神分析家は「共時性 シンクロニシティ」と称している。「意味のある偶然の一致」って話だね。こういう偶然を即座に意味づけようとする行為は、星座と性格の相関関係を統計的に調べよう、といったオカルティックな姿勢に結びつく。でも、ラカンはまったく同じ現象を例にとって、これを転移現象のサンプルにしようとする。その偶然に意味があるかどうかを決定づけるのは、あくまでもそこにある関係性いかんであり、そこに転移関係があれば、あらゆる偶然は意義深いものになりうる。わかりやすく言えば、ラカンの転移解釈は、こういう関係性のダイナミズムを重視するから、意味論ではなくて技法論として有効たりうるんだね。
 まあ、「みんなは私、私はみんな」と思いたい人はシンクロニシティを信じてればいいし、「私は存在するのか」という執拗な懐疑から出発して、あらゆる意味付けを転移性の症状として理解したい人はそうすればいい。このあたりは、好みの問題、と言うことになるかなあ。あ、それとついでに言えば、いままでのラカンの議論、この転移問題もふくめて、いきなり仏教の「空」論に結びつけたりするのはちょっとカンベンね。たしかに、物事に実体があることを否定していたり、ものとものとの関係(「縁起」ってやつだ)のほうを重視していたりと、一見ラカンと仏教は、ラカンと量子力学くらい良く似かよっている。ただね。今ここで詳しく話す余裕はないけど、「空」論からは、たとえば「性関係は存在しない」といった、ラカン的なフレーズは出てこない。むしろ男女の関係を含めて、一切を関係性において理解しようとするだろう。性欲は煩悩の一つかも知れないけれど、人間を規定する特権的な属性ではない。「性」を人間存在の根幹に据える精神分析の発想とは、まず出発点から異なっているわけだ。
 では、転移が存在すると言うことを、どう考えたらいいか。前回の話題から、それは女性患者が男性治療者を愛するようになること、と誤解してしまった人もいるかもしれないから、それだけじゃないことをまず言っておきたい。
 僕がはじめて「転移とはこういうことか」と理解した経験について話そう。まだ駆け出しの、研修医時代のことだ。僕は外来で、その日はじめてやって来た中年の女性患者と面接していた。彼女は夫との関係がうまくいかないことに悩んで、うつ状態や不眠が続いていた。彼女の訴えは淡々としており、どちらかといえばその話しぶりは、自分の至らなさを責めるようなトーンだった。ところが、彼女の夫の振る舞いを聞けば聞くほど、これが実にひどいんだね。肉体的な暴力こそ振るわないものの、外泊して帰ってこなかったり、家に金を入れなかったり、パチンコでたくさん借金を抱え込んだり。で、僕はもちろん彼女に対して、まず現実的な対応策を勧めたくなった。つまり「まずこの旦那をなんとかしろ」と言わずにはおれなくなった。なぜなら、彼女はあまりにもそのことに無自覚に思えたから。
 でも、ちょっと考えてみよう。なるほど、いま目の前で話している彼女は、夫のひどさに十分気付いていないのかもしれない。でも、本当にそうだろうか。僕の言葉は、もちろん僕の口から話しているんだけれども、彼女の言葉を聞いたら、かなりの人がそういうアドヴァイスをしたくなったのじゃないだろうか。そう考えると、僕の言葉は僕自身のものというよりも、彼女に語らされていると考えるべきじゃないだろうか。しかし、彼女自身が問題のありかに気付いていないようにもみえる。だとしたら、正確には僕と彼女との関係性において、無意識に何かが伝達され、それが僕の口から語られたと考える方が正確なんじゃないだろうか。つまりこれが、自ら語っているつもりで、象徴界によって語らされているということなのではないか。
 初診の患者だし、まだ転移性恋愛なんて生ずるほど治療関係も深まっていなかったから、むしろラカン的な意味での転移がこんなふうに起こるという「感じ」くらいは持ってもらえたんじゃないかと思う。ポイントはふたつ。複数の対人関係があって、その関係性の中で、能動的と思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったことに気付くこと。この瞬間に、転移が起こっていると言うことができるんだね。

 前回も話した通り、精神分析っていうのは、この「転移」抜きには成り立たない。
 ラカンも転移をすごく重視していたことは前回話したよね。彼によると、もはや転移抜きでは精神分析は不可能だし、転移の経験なくしては、精神分析家になることすらできない。そのくらい大切な概念なんだ。ひさびさに、ラカンの言葉をいくつか引いてみよう。

・精神分析の始めにあるのは、転移である。
・転移はつねに、分析家のさまよいと導きの機会を示す。
・転移を支持するのは、知っていると想定される主体である。

 まあここまでは、転移の大切さということで理解できるよね。
 さらに言えば転移というものは、いろいろな意味でパラドキシカルな現象でもある。

・精神分析家が転移そのものに介入するのは、転移によって与えられた位置を通じてである。
・転移の解釈は、転移そのものを土台として、またそれを手段としてなされる。

 転移を知るには、まず転移が起こってなくちゃならないってわけだ。ちょっとしたパラドックスだよね。転移現象を上手に利用するためには、まずそれが起こっていることをみとめなくちゃならないんだから。言い換えるなら、転移が起きているか否か、それ自体は検証できないってことだ。なぜなら転移の存在は、それがあらかじめ存在しているという前提なしには利用できないんだから。転移を話題にした時点で、人はすでに転移の磁場のなかにいるということだ。

・転移がリアリティを生み出す。
・転移の転移は存在しない。

 こうなると、ちょっと難しくなるかな。でも、転移がリアリティをもたらすのは、それが擬似的な感情であるにもかかわらず、どうしてもリアルな恋愛感情にしか思えない場合を考えてくれればいいかもね。恋愛に限らず、憎しみなんかもそうかな。「転移の転移は…」っていうのは、転移を可能にするようななにものかがあるとして、その転移はない、つまり「メタ転移」は存在しない、ということを意味している。これは、もうひとつの有名な言葉、「メタ言語は存在しない」っていうのに近いかな。転移を媒介するのは言語だ。言語にはそれを基礎付けるもの、すなわち「メタ言語」が欠けている。言語はシニフィアンであり、その根拠をそれ以上遡ることができないからだ。

 現代社会は「コミュニケーション幻想」と「情報幻想」が歴史上かつてないほど、ひろくゆきわたった社会だ。そこではあらゆることが情報化され、情報化されたものは必ず流通(コミュニケーション)させることができる、と信じ込まれている。でも、そんな幻想によって失われるものも多いはずだ。そう、たとえば「関係」がそうだね。いまは関係を確立したり、それを意識したりするよりも、とにかく「コミュニケート」しなくちゃならない。
 たしかに話し合うことは大切だ。僕だって臨床家としては、「会話」を特権的なまでに重要視している。ただ、コミュニケーション幻想をまともに受け止めすぎると、会話なしには関係性が成立しないかのような錯覚に陥ってしまうだろう。でも、実際にはそうじゃない。現実には、会話がほとんど交わされていなくても、関係性が成立してしまうことがある。「一目惚れ」なんて、そうでしょう。あるいは、会ったこともない作家やアーティストのファンになってしまうことも、よくあるよね。それだって、一種の「関係」だ。人間の心には、もともとそういう機能が備わっている。それがたとえば「転移」であったり、「投影」とか「同一化」といった言葉で言い表される現象だ。では、これらの関係を成立させているのは「情報」なのだろうか。
 ちなみに、「転移」「投影」「同一化」っていう言葉は、けっこう頻繁に出てくるわりにはまだちゃんと述べてはいなかったので、ついでに簡単に解説しておこう。
 「投影」とは、「主体が、自分の中にあることに気づかなかったり拒否したりする資質、感情、欲望、そして対象すらを、自分から排出して他の人や物に位置づける作用。」ということになる。要するに、自分の中の感情を、まるで相手の感情であるかのように体験することを指している。たとえば自分が腹を立てているのに、まるで相手が怒っているように感ずるような経験は誰にでもあるだろう。これは投影による作用だ。もちろん、それだけじゃない。ゆれるススキの穂に恐怖心を投影すれば、幽霊が見えたりもする。こんなふうに「投影」されるのは、たいてい自分では認めたくない感情であることが多い。
 投影のように「内面にあるものを外の対象に映し出す」ことは、もっとも基本的なこころの働きのひとつだ。ここで「映し出されているもの」が何であるかによって、「投影」のほかに「同一化」と「転移」がある。「投影」で「映し出されるもの」は、「自分の中にあって認めたくない、排除したい感情」だった。じゃあ「自分の中にある良いもの」が映し出されることはないのか。もちろんある。こちらの場合は「同一化」の作用を考えなければならない。
 犬や猫などのペットをわが子のように可愛がる人は、ペットに「同一化」している。映画に夢中になって、すっかり主人公になりきっているような場合は、主人公に「同一化」している。ここでいう「同一化」は、こうした「感情移入」とか「思い入れ」と同じように考えて構わない。いずれの場合もペットや映画の主人公などに「自分自身」、とりわけその良い部分を映し出しているからだ。

 ラカンの転移に関する発言には、転移があたかも「情報」の流通のように描かれているこれに関連してラカンが言った言葉に「知っていると想定される主体」という、有名な言葉がある。これは治療中に転移が起こり、その結果、患者が治療者のことを、まるで全知全能の存在であるかのように感じはじめるような事態を指している。「このひとこそ、自分の欲しいものを持っているひとだ!」という感覚ね。もちろんそれは事実ではないんだけど、そう感じるからこそ、転移の感情は保たれていく。その意味で、これは非常に本質的で重要な感情ではあるんだ。
 そう考えるなら、けっこうこの感情、みんなにも覚えがあるんじゃないかな。尊敬できる教師イメージは、このところちょっと分が悪いかも知れないけれど、尊敬できる作家や思想家、アーティストならいる、という人は多いはずだ。その「尊敬」が、本当にその対象を正確に理解したうえでのものかどうか。多くの場合、そこには必ず一種の「過大評価」が入り込んでしまう。そう、まるで相手を「全知全能」であるかのような見方をしてしまいがち、ということだ。
 ひとごとじゃない。僕にだって覚えがある。
 たとえば精神科医として、僕はかつて書物を通じて知ったN先生という精神科医に対して、一時そのような感情を持っていた。この先生のことは、僕は本を通じてしか知らない。でも、文章や音楽を通じてでも転移は起こる。太宰治ファンや尾崎豊ファンをみてもわかるとおり、ときには相手の生死すらも関係ないくらいだ。ともかく、僕はまだ若かったころ、この先生の本を沢山読んで、ほとんど心服したってわけだ。精神科医としてのみならず、文章家としてもこれほどの人は存在しないのではないか。その先生の本は、一行読むごとに未知の知識にぶつかるような内容で、その博識ぶりには圧倒された。
 余談だけど、僕は精神科医として「知識の型」に関心がある。だからしょうしょうの博識くらいじゃ驚かない。少なくとも、その知識を獲得する過程が容易に想像できる限りにおいては、「圧倒」されることはない。ところがN先生の知識体系は、そうした勘繰りをしりぞけるほどに凄いもののように感じられた。そう、まさに僕はN先生に転移し、N先生こそが自分にとって、全知全能の治療者であるかの如く感じてしまったというわけだ。
 ちょっと自己弁護しておくと、この先生は実際、転移を呼びさますような「伝説」が多い人だった。一度みたものはすべて記憶するという「直観像」という特異な才能を持ち、数カ国語を自在に読み、なかでもニューギニア語を三日で修得して学会発表を行ったというエピソードには仰天させられた。精神科医としても、著書のみならず、いくつもの治療法や検査法を「発明」している。ギリシャ詩やフランス詩の訳業まである。転移しないまでも天才呼ばわりはしたくなるよねえ。まあ、そういうわけだ。
 で、その後、光栄にもご本人におめにかかる機会があったり、こうして転移の知識を深めたりするにつれて、僕の気持ちはもう少し冷静なものになっていった。もちろんいまでも、僕が最も尊敬する精神科医の一人には違いないけれど、さすがに全知とまでは思わない。一時の熱狂が醒めて、一定の距離感とともに先生の仕事を眺めることができるようになったというか。でも、ときどきこう考える。精神分析にもくわしいN先生だけに、自分のファンをうまいこと冷静にさせるように誘導したんじゃないかってね。そんなふうに思っているうちは、まだ転移はくすぶり続けているってことなのかもね。やっぱり先生の著書に自分の名前があったりすると、なんというか、欣喜雀躍、みたいな感じになるし。

 とまあ、たとえばこういう感情が「転移」であるとして、ラカンの転移論っていうのは、一体どういうものだったのか。ラカンには「主体の不均衡からみた転移」っていう有名な論文がある。そう、例のプラトン『饗宴』を引用したやつだ。これにもとづいて、もう少しばかり解説してみよう。
 アガトン、アリストパネス、ソクラテスらが、エロスをめぐって談義をかわしていた酒宴に、すっかり泥酔したアルキビアデスが乱入してきた。アルキビアデスっていうのは、有能な軍人にして政治家のエリート青年ね。彼はかつて、ものすんごい美少年としても知られていた。で、同性愛者でもあった。もっともギリシャ時代に同性愛者であることは、なにも特別なことじゃない。アルキビアデスはソクラテスのことが大好きだった。それで、いろいろと手練手管(ってなんだろう?)をつくしたんだけど、ソクラテス(彼も同性愛者だ)は結局、彼の誘惑をしりぞけることになってしまった。はじめはまんざらでもなかったらしいんだけどね。これは一体、なぜなんだろうか。
 ラカンによれば、それはソクラテスが、アルキビアデスの恋心が転移性のものであることを知っていたから、ということになる。アルキビアデスはまさにソクラテスを「知っていると想定される主体」とみなしていた。つまり彼は、ソクラテスの中に、輝くばかりの宝物があるように感じていた。しかしこの輝かしい対象−−ラカンはそれを「アガルマ」と呼んだ−−は、実はソクラテスのうちにはない。アルキビアデスは、本当は詩人の美青年アガトンに恋しており、アガトンを褒め称えるソクラテスの言葉のうちに、みずからの理想像を見出したのだ。つまりアルキビアデスは、ソクラテスの「アガトンへの欲望」を欲望していたのである。そしてアガルマへの欲望を告白することは、実は欲望の主体であるアルキビアデス自身の主体が抱えている分裂の所在を明かすことにほかならない。
 いままでの連載を丁寧に読んできてくれた人にはわかるように、この「アガルマ」こそが対象aなのである。
 繰り返そう、このエピソードにおいてアルキビアデスの欲望は、ソクラテス自身には向けられていない。アルキビアデスが求めていたもの、それはソクラテスの「知への欲望」そのものである。つまりアルキビアデスは「ソクラテスの欲望」を欲望していたのだ。ここにこそ「転移」現象の一つの本質がある。
 ちょっと脱線するけどいいかな? 僕は基本的に、人間が人間を教育することなんてできない、とかたく信じているところがある。人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま出会っただけに過ぎない、ともね。あの地動説のガリレオがこんなことを言っているそうだ。「他人になにかを教えることなど出来ない。出来るのは、自力で発見することを助けることのみだ」とね。これなんか、すごく良くわかるな。このガリレオの言葉には、教育の本質はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。ただし、ちょっとだけ言い換えるなら、発見を助けるってことは、発見したいという欲望を伝えるってことにひとしいんだね。
 このような欲望は、アルキビアデスとソクラテスが、ともに象徴界のネットワークに参入していたからこそ成立しえた。彼らはともに最初からシニフィアンという媒質中の存在であり、それゆえにこそ「情報」ならぬ「欲望」の伝達が可能になったのだ。それはちょうど、同じ媒質中におかれた二つの物質が、共振を起こすような出来事でもある。
 このラカンによる「饗宴」の解釈になんらかのリアリティを触知しえたなら、あなたはすでにメディア論から離れ、精神分析の磁場へと誘惑されつつあるはずだ。なぜなら「解釈のリアリティ」はすでに転移性のものであり、転移はメディア論によっては決して語り得ないからだ。転移の主作用は「情報の移動」ではなく「欲望の移動」である。二つの主体の間で「転移」が起こる時、そこではまさに「欲望のコンテクスト」と「欲望のシニフィアン」が、愛の幻想を生成するだろう。
 「コンテクスト」と「シニフィアン」が情報化に対して徹底して抵抗する要素であることはすでに述べた。もちろん電子メディアを通じてであっても、この種の生成は十分に可能であろう。しかし、その生成においては、メディアの特性はほとんど問題にもならない。人はメディアの媒介ゆえに愛するのではなく、媒介にもかかわらず愛するからである。
 愛を可能にするものは「顔」である。私は『文脈病』(青土社)において、「顔=文字=コンテクスト」であり、それが現実界に所属するものであることを検証した。顔の同一性は表象不可能なコンテクスト的同一性であり、欲望は顔を通じて伝達されるだろう。最も強い転移が生じている時、相手の顔がしばしば思い出せなくなるのがその何よりの証である。顔による伝達は、時に顔のイメージが欠落してしまうほどに強力なのだ。そして転移に基づく「顔」の伝達こそは、メディアそれ自体が決して自律的には生成し得ないものの一つである。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。