灼熱の一日が終わろうとしている。利根川の川面は西陽をぎらぎらと反射して、河原に作られたゴルフ場では帰り支度の男たちが、和やかに声をかけ合っている。しばらく川沿いを歩き回ったけど、渡し場の痕跡らしいものは見つからない。土手の草の上に僕は腰を下ろす。
 当然だけど惨劇の余韻などどこにもない。一陣の風が汗ばんだ頬を撫でる。たぶん78年前のその日も、きっと同じような風は吹いていたと思う。

 大正12年9月6日、関東大震災から6日過ぎたこの日、千葉県葛飾郡福田村(現野田市)で事件は起きた。大八車に日用品を積んだ15人の行商人の一行がこの地を通りかかった。福田村三ツ堀の利根川の渡し場に近い香取神社に彼らが着いたのは午前10時ごろ。
 この行商人の一行は五家族で構成されていた。一人が渡し場で渡し賃の交渉をする間、足の不自由な若い夫婦と1歳の乳児など6人は鳥居の脇で涼をとり、15メートルほど離れた雑貨屋の前で、二十歳台の夫婦二組と二歳から六歳までの子供が三人、二四歳と二八歳の青年が床机に腰を下ろしていた。交渉が始まってすぐに、渡し場が殺気だった。「言葉が変だ」と船頭が叫ぶ。突然半鐘が鳴らされ、駐在所の巡査を先頭に、竹やりや鳶口、日本刀や猟銃などを手にした数十人の村の自警団が、あっというまに現地に集まった。

 「日本人か?」
 「日本人じゃ」
 「言葉が変だ」
 「四国から来たんじゃ」

 そんな会話があったと生存者は証言している。命じられるままに君が代を唄わされたが、それでも殺気だった男たちは納得しない。巡査が本庁の指示を仰ぐために現場を離れた時、突然男たちは行商人の一行に襲いかかった。乳飲み子を抱いて命乞いをする母親は竹やりで全身を突かれ、男は鳶口で頭を割られ、泳いで逃げようとした者は小船で追われて日本刀で膾切りにされた。
 惨劇はしばらく続き、雑貨屋の前にいた9人は全員殺された。一人は妊婦だったという。鳥居の側で茫然と事態を見つめるしかなかった6人は、針金や縄で後手に縛られ、川べりに引き立てられた。乳児を抱いたまま縛られた母親を後ろから蹴り上げながら、一人の男が「早く投げ込んじまえ!」と叫ぶ。呼応した自警団の面々が縛りあげられたままの6人を川に投げ込もうとしたとき、馬で駆けつけた野田署の警官が事態を止めた。河原には女子供を含む9つの惨殺死体が転がり、厳しい残暑の日差しに照らされていた。(死体は既に川に投げ込まれていたという説もある)

 現場は福田村だったが、襲撃したのは同村と隣の田中村(現柏市)の自警団だった。数十人いたと見られる自警団のうち、8人だけが殺人罪で逮捕されるが、昭和天皇即位に伴う恩赦ですぐに全員釈放される。取調べの検事(弁護士じゃない)が、「加害者たちに悪意はない」と新聞に語り、弁護費用は村費で負担され家族には見舞金もあてがわれた。主犯格の一人は出所後村長になり、後に合併後は市議にも選ばれた。
 これだけの虐殺なのに事件そのものや刑罰の軽さを問題視する人もほとんどなく、マスコミもなぜか事件究明については及び腰だった。不思議なことに被害者の遺族からも抗議や不満はほとんどなく、現場には慰霊碑すら建立されず、こうして福田村事件はいつしか歴史の闇に葬られ、思いだす人すらいない時代が何十年も続いてきた。

 蛇足とは思うが背景を説明する。震災勃発後、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというデマが関東地域では飛び交い、戒厳令が布告され、6000人を超える朝鮮人が惨殺された。福田村で襲撃された行商の一行は日本人だった。全員が香川県三豊郡内の被差別部落の出身者だ。仕事を制限される彼らにとって、行商は大事な生業だった。事件が加害者側である野田市はもちろん、被害者の地元の香川でも、なかったことのように扱われた背景には、おそらくこの事情がある。
 最後に残った生存者の証言をきっかけに、昨年「福田村事件を心に刻む会」が設立された。しかし未だにメディアの対応は鈍い。昨年「刻む会」設立にあたり、事務局は地元のマスコミに案内を出したが、当日取材に訪れた社は一つもなかったという。

 およそ2ヶ月前、読売新聞千葉県版の小さな囲み記事で事件の概要を知った僕は、幾つか取材を重ねて企画書にまとめ、民放各局のニュース番組の特集企画担当プロデューサーを訪ね歩いた。しかしやはり反応は鈍い。事件そのものについては皆率直にこんなことがあったのかと驚嘆するが、番組として放送するかどうかについては一様に逡巡した。
 「ニュースバリューはありますよ。でも、とにかく非常にナイーブな事件ですね」
 「ナイーブ?」
 「つまり、どこに番組としての視点を置くかなんです。日本人が朝鮮人と勘違いされて惨殺された悲劇としてしまったら、朝鮮人虐殺を肯定しかねないし、部落民だから殺されたわけではないのに、殊更部落を強調することは、いってみれば差別の再生産に繋がるわけで……メッセージの伝え方が非常に難しい話なんですよ」
 理屈としては分かる。だけど絶対に承服できない。ややこしいとか古過ぎるとか具体的な映像がないとか時間が足りないとか、そんな理由でこの事実を封印することは絶対にできない。9人の命が闇に屠られた。そしてこの時期、日本中で6000人が惨殺された。この事実を直視するだけでよい。知るだけでよい。福田村事件は決して過去形ではない。今の日本という国のありようを考える上で、これほどにシンボリックで寓意に満ちた事件は他にないと僕は確信しているからだ。

 昨年秋、ドキュメンタリー映画『A2』撮影のため、僕は毎週のように群馬県藤岡市に通っていた。信者数100人を超える「オウムの最大拠点」と呼称された施設がこの地にあったからだ。親しくなった信者の一人と施設の周囲を散策していた時、道路の脇に苔むした慰霊碑を見つけた。
 「それね、虐殺された朝鮮人たちの慰霊碑なんです」
 「朝鮮人?」
 「関東大震災で朝鮮人たちが虐殺されたでしょう?この地域がいちばん激しかったらしいんです。私たちも最近までそのことを知らなくて、この慰霊碑を見つけたときはちょっとぞっとしました」

 施設の周囲は群馬県警が24時間警備している。更にその周囲を当時は地元住民の監視団がぐるりと包囲して、信者たちの出入りに厳しい目を向けていた。警察がいなかったら何をされていたかわかりませんねと信者は微笑む。現実に何人かは警察が目を離した隙に、住民に囲まれて危害を加えられたケースもあったらしい。

 虐殺の加害者たちは皆、普通の村民たちだった。家族を愛し隣近所の付き合いを大事にし時には義憤に燃え時には涙を流す、そんな市井の心優しい人たちが何十人もの集団となって、乳飲み子を抱いて命乞いをする母親を竹やりで息絶えるまで突き、逃げる子供に猟銃の照準を向け、呆然と立ち尽くす若者の脳天に背後から鳶口を突きたてたのだ。78年前、この光景は関東中で繰り広げられ、6000人余りの命が犠牲となったのだ。

 救いなどない。学ぶこともない。ただこの事実を直視するだけでいい。小賢しいメッセージなど不要だ。

 彼らは僕らの祖父であり父であり、そして僕ら自身でもある。

 自分自身が帰属する「市民社会」という主体に、この劣悪な思考停止と凶暴な衝動がひっそりと息を潜めていることを、とにかく骨の隋まで自覚することだ。別にオウムだけに擬える気はない。今の日本に蔓延するあらゆる事象や事件に、福田村事件は内在している。そしてここ数年、急速に露出しつつある。

 しつこさは承知でもう一度だけ言う。お願いだ。直視しよう。


森達也(もりたつや)
1956年広島県生まれ。立教大学卒。ディレクターとして、テレビ・ドキュメンタリー作品を数多く制作。97年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画『A』を公開、海外でも高い評価を受ける。著書に、『「A」撮影日記』、99年放送のテレビ・ドキュメンタリー「放送禁止歌」をベースに書き下ろした『放送禁止歌』、超能力者を題材にした『スプーン』がある。