晶文社の編集者である安藤さんからランチをご馳走になって、ホームページに何か書いてみないかと誘われたのはもう一ヶ月も前だ。題材は自由。文字数も厳格な制限はない。つい一年前までは原稿の依頼など皆無に等しかった僕にとってはありがたい申し出で二つ返事で引き受けたけど、締め切りの月末までもう数日しかないのに何も書けない。筆が進まないというレベルではなく全く着想すら浮かばない。理由は分かっている。制限がないからだ。テーマを与えられていたのならたぶん三日で書き終えていたと思う。エッセイでよいと言われたけどたぶん僕のエッセイなど誰も読まない。とにかくキーボードに向かう。書いているうちに何とかなるだろうとすがる思いで書き始めたのだけどやっぱり何も浮かばない。でもせっかくの機会を失いたくない。今回は無理やりにでも書く。

 小人のことを書こうと思う。

 9年前、僕はフジテレビで放送された「ミゼットプロレス伝説」というタイトルの小人プロレスのドキュメンタリーを制作した。よく勘違いされるけど演出ではない。企画は確かに僕だけど、フジテレビで放送することが決まったとき、僕は知己のディレクターに演出を依頼した。自信がなかったからだ。当時はテレビ番組制作という業界に棲息し始めて3年ぐらい。僕はディレクターとしての自分の力量にすっかり自信を失っていた時期だった。プロデューサーという現場の裏方に回りながら僕はほとんどの現場に出向き、全日本女子プロレス(小人プロレスラーたちは昔からこの団体に所属している)の地方巡業まで同行していた。ディレクターからはたぶん嫌われたと思う。

 企画のきっかけになったのは、現代書館から出版されたばかりの高部雨市さんのルポ『異端の笑国』だった。本を読み終えてすぐに高部さんに連絡をとって会った。「テレビドキュメントの話は幾つかあったけど、みんないつのまにか立ち消えでしたよ」と高部さんは微笑んだ。確かに当時所属していた番組制作会社のプロデューサーたちからは、「こんな企画を局にもってゆけるわけがない」と嘲笑された。そんなこともきっかけになって僕は制作会社を退社した。その後のテレビ業界における流浪生活の始まりでもある。
 徹夜続きの編集を経過して最後の試写が終わっての帰り道、「森さんが演出するべきだったよね」と肩を並べて歩きながら高部さんはぽつりと言った。番組は深夜枠ではあるが、90分の特番になって好評だったらしく再放送もされた。でも僕は内容に不満だった。小人たちの日常や再起などのドラマ作りが通俗的すぎて、社会への目線が欠落していることが不満だった。こんな思いをするくらいならやはり自分で演出をするべきだったと後悔した。

 先週久しぶりに高部さんから携帯電話に連絡があった。「坂本さんたちがとうとう老人ホームに入っちゃったんですよ」高部さんはいきなりそう言った。
 「大五郎さんは?」
 「大五郎さんも症状がかなり進んじゃって、坂本さんももしかしたら痴呆がきちゃったのかなあ。会いに行っても僕のことよくわからないようなんですよ」
 坂本さんのリングネームは天草海坊主。怪異な容貌と怪力で、小人プロレスではヒールとして一世を風靡した存在だ。大五朗さんは隼大五朗。当時のポスターやパンフレットには、ゴムマリのような弾力のある肢体を生かしたアクロバティックなプロレスが身上と表記されている。二人ともほぼ30年前の日本の小人プロレスの全盛期を支えたレスラーだけど、坂本さんは現役引退後に脊椎を捻って下半身不随となり、大五朗さんは頭に水がたまるという奇病で記憶が貯まらない状態が引退後ずっと続いている。9年前の撮影時期、二人はもう一人の小人プロレスラーであるプリティアトムを加えた三人で、秩父の全日本女子プロレスの別荘の管理人のような仕事をやっていた。尤も仕事らしいものはない。当時の全日本女子プロレス興行会長である松永さんが、苦楽を共にして身体に障害を抱えた彼らが引退後にも安心して暮せるようにと住まわせてくれたのだ。しかしその後全日本女子プロレスは倒産し、失明していたプリティアトムは急死し、残された二人は障害者年金を頼りに秩父の賃貸アパートで細々と暮していた。外出の際はいつも坂本さんは大五朗さんが押す車椅子に乗り込む。自分が今何処にいるか、何をしているかもよく分からなくなってしまった大五朗さんに指示しながら、スーパーで買物をして、月に一度のパチンコが唯一の娯楽だった。
 いつもにこにこと温和な微笑を浮かべる大五朗さんが、一度だけ慟哭したのを見たことがある。秩父の別荘で飲んだ翌朝だった。つい先日別れた奥さんから電話があったんだと坂本さんが説明してくれた。「大五朗ちゃん。記憶が奥さんが家を出た直後に止まってしまったから、忘れることができないんですよ」

 高部さんは天涯孤独な二人とずっと連絡をとりつづけている。年に何回かは会って、孤独な二人の酒の相手をしている。『異端の笑国』は3年前に幻冬社文庫から『君は小人プロレスを見たか!』とやけに分かり易すぎるタイトルに変わって発売された。でも高部さんにとってはたぶん終わった題材なのだ。それなのに高部さんは彼らとの交流をずっと続けている。その理由を訊ねたことはない。でももし訊ねたのなら、高部さんはきっとにこにこ微笑みながら、質問の意味がよく分からないなあというふうに小首を傾げるのだろう。

 現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。年齢は僕とほぼ同じだ。でも試合はほとんど組まれていない。地方の会場の場合は根強いファンがいて時おりはリングに上がる。でもテレビの中継があるときには、二人の試合のときにだけ撮影用の照明が落とされる。今に始まったことではない。僕がドキュメントを撮った9年前から、もっともっと前からそうだった。当時、ドリフターズの全員集合!という番組にレギュラーで出演しないかという申し出があった。坂本さんや大五朗さんも現役の頃だ。でも試合は既にテレビからはオミットされていたし、小人たちはこのチャンスに顔を売るんだと張りきってコントの練習にいそしんだ。

 1クールの約束は数週で反故にされた。「申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサーは呆然とする彼らに説明した。どうしてあんな可哀想な人たちをテレビで晒しものにするんだという抗議が殺到したという。
 二人の現役レスラーの今の生活の糧はほとんどCMなどのテレビ出演だ。でも素顔が露出されることはまずない。着ぐるみだ。大人が着ぐるみを纏えばどうしても巨大な体躯になる。小さな着ぐるみが画面に登場する際には、まず彼らが中にいると思っていい。ギャラは5万とか多くて10万円。本人たちに聞いた。まさかと絶句する僕に、「そんなもんじゃないんですか?」と二人は真顔で言った。

 「足を直してもう一度リングに復帰するんだ」と坂本さんは9年前何度も言っていた。たぶん無理だということは本人がいちばんよく知っていたと思う。「ミゼットプロレス伝説」は二回放送されたけど、彼らの状況は何も変わらなかった。坂本さんの酒の量が少しずつ増えてきた。秩父の1DKの賃貸アパートで、50歳を超えた二人の元小人プロレスラーは、ひっそりと互いを庇い合いながら暮してきた。一度深夜に泥棒に入られたことがある。体の動かない坂本さんと頭の動かない大五朗さんは布団にくるまってじっとしていたという。
 「怖かったよ本当に」坂本さんが悔しそうに僕に言ったのはもう2年前だ。それから僕は会っていない。そういえば今年は年賀状の返事も来なかった。

 高部さんは月に一度は秩父に行くという。次回の訪問には僕も同行するつもりだ。行ったって何もできない。分かっている。僕は何ひとつできない。会って話して、「じゃあまた来るね」とでも言い残して、二人を置いて帰るだけだ。
 帰り道に高部さんと居酒屋で湿っぽい酒を飲んで、それで僕はしばらく二人のことを忘れてしまうのだろう。僕はその程度でしかないし、高部さんはその程度でしかない自分への覚悟ができているのだ。この差は大きい。彼らのテレビ出演に抗議した善意の人たちと僕との差よりも、絶望的なほど大きい。

 僕が使っているワープロソフトは、「小人」を変換しない。この程度は自覚したい。僕らが今住んでいる社会は、「その程度の」社会なのだ。


森達也(もりたつや)
1956年広島県生まれ。立教大学卒。ディレクターとして、テレビ・ドキュメンタリー作品を数多く制作。97年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画『A』を公開、海外でも高い評価を受ける。著書に、『「A」撮影日記』、99年放送のテレビ・ドキュメンタリー「放送禁止歌」をベースに書き下ろした『放送禁止歌』、超能力者を題材にした『スプーン』がある。