筆者の職業は大学講師だが、最近痛切に感じる疑問がひとつある。それは学生の性別を考慮せずに物事について教えることが果たして妥当かということである。たとえば仮にポルノ映画やアダルトビデオについて講義をおこなうとしよう(突飛に聞こえるかもしれないが「文化研究」の枠に入れればやれないことはない)。またその際の指針として「楽しみかつ学ぶ」という古来より培われてきた人文主義の王道を教育上の理念に据えることとしよう。「楽しみかつ学ぶ」は進歩的教師たちのよく言う「学びかつ楽しむ」とは微妙に異なるものである。後者の主眼はあくまで快楽の社会的機能や歴史的変遷といった学術知識の探求であり、快楽それ自体ではない。かたや古典的人文教育が目指すのは快楽の飽くなき追求であり、学術知識はそのための手段とはなっても自己目的化されることはない。なるほど対象分野によっては「学びかつ楽しむ」ほうがより適切な場合もあるだろう。が、ことポルノ映画に関してはそれは明らかに間違った手法である。我々がこのジャンルから何よりも率先して学ぶべきことは自己の快楽の忠実な表現であり、その表現形態は男の場合「抜く」、女の場合「イク」となる。ただ教育上の困難が出てくるのもそこからである。もし仮にこれらが性快感の絶頂を目指すという点以外には何ら共通点のない行為だとしたらどうだろうか? いやそれどころか、むしろ男女が互いに反発しあうところにそれぞれの性的快楽の源泉があるとしたら――つまり性の本質が男女の協調というよりは反目にあるとしたら、我々教師はこれをどう学生に伝えればよいだろうか?

 スタンリー・キューブリック監督の遺作『アイズ・ワイド・シャット』(2000年)は厳密にはポルノ映画ではないが、こうした男女の性にまつわる謎を形而上学の域にまで到達させた点において授業には欠かせぬ映画である。物語はあるひとつの問い――「円満な夫婦生活と刺激的な性生活は両立しうるのか?」――をめぐって進行する。トム・クルーズとニコール・キッドマンが演じる相思相愛の夫婦は、妻アリスがある日ふと漏らした告白を境にそれまでの満ち足りた平和な関係が崩れていく。それによると、彼女は以前レストランで会食中、見知らぬ海軍士官からいやらしい視線を浴び、その夜、ふしだらにもその士官から犯されることを想像してしまったという。妻は実際に不倫を犯したわけではないが、夫のビルはその話を聞いて以来心のバランスが崩れ、他人に抱かれる妻のみだらな肢体が脳裏から離れなくなる。映画は再三にわたってこの想像上の陵辱シーンを映し出すが、そこでは決まって妻が行為を覗き見している夫に対し、官能にあえぐわたしを見よといわんばかりの挑発的ポーズを送っている。
 我々はこの凝縮されたシーンのなかに男女の性のあり方の本質を見出すことができるかもしれない。それはある種の敵対関係といえるものであり、それはまたラカンのいう「不可能な関係」でもある。映画はこうした関係を、それと対極に位置する「可能な関係」、すなわち円満な夫婦生活との対照によって浮き彫りに出す。円満な夫婦生活とはもちろん互いへの愛や理解によって成り立つものだが、愛が揺るぎないものになればなるほど、逆に性的興奮が弱まるのも事実である。我々は「セックスは『愛の証』」という捉え方をまず疑ってみる必要がある。そもそもセックスによって愛を証明しなければならないということは、愛がそれ自体としては自明でも自己完結的でもなく、セックスという愛とはまったく別の行為によってしか男女関係が完結しえないことを意味するのではないか? しかも「愛の確認」というセックスの大義名分とは裏腹に、性的興奮が愛の不在への疑念に比例するとしたら、セックスは愛の確認どころかその否認ということになる。もちろんここでいう否認は、自分の相手に対する愛というよりは相手の自分に対する愛の否認である。実際映画のなかでも、夫のビルは妻の不貞を積極的に疑うことによって最大の性的興奮を獲得する。しかもそれで最後に得をしたのは夫ではなく妻である。それまでの義務的で味気ないセックスが夫の妄想のおかげで極度の刺激と緊張を帯びたものへと変わりえたとすれば、妻は夫の不信に感謝して然るべきとは言えないないだろうか?
 こうした観点から男女の政(性)治学をあらためて見直すと、いわゆる「良妻賢母」は女の上に君臨しようと欲する男にとって諸刃の剣ということになる。妻の貞淑や従順は夫の家父長としての権威を高めこそすれ、ペニスを萎縮させる。最近、社会問題化している「DV」(ドメスティック・バイオレンス=夫の妻への暴力)を性的虐待の一種と捉えるのは、その意味でも誤りである。夫が妻に怒りの矛先を向けるのは性的動機からではない。むしろ反対に性的動機が少しも湧いてこず、萎えたペニスの原因が妻の貞淑にあると思えるからこそ、夫は暴力をふるうことで妻にその責任をとらせようとするのである。
 題名は忘れたが、以前筆者が観た夏樹静子原作の「火曜サスペンス」に次のようなエピソードがあった。自分を女としてみてくれない夫の気を引くために妻は内緒で高価なランジェリーを買う。が、いざそれをお披露目したところ、ケチで生真面目な夫は興奮するどころか値段を聞いて激怒し、「そんなもの、とっとと返してこい」と妻の乙女心を粉砕する。我々はこのどうみても救いようのない話から何を教訓として学びとるべきだろうか? 我々はそのヒントとなるべきものを『アイズ・ワイド・シャット』のなかに再び見出すことができる。そのなかで妻アリスがとった行動は「火サス」の妻とはまったく逆の不倫を仄めかすことであったが、なぜそれはうまく功を奏したのか? それは彼女が夫の性的心理をよく把握していた以上に、精神分析のいう欲望(「他者の欲望の欲望」)を巧みに操る手腕に長けていたからである。
 そもそも夫ビルはなぜ妻に性的魅力を感じなくなってしまったのか? 「火サス」の妻であれば、それを自分の女としての魅力に問題があると捉えただろうが、アリスは賢明にもそれを夫自身の問題と捉えた。彼女の下した処方によれば、夫の性欲減退の原因は、夫婦関係の硬直化によって欲望の本来のあり方である「他者の欲望の欲望」を夫が忘れてしまったことにある。ただ、誤解のないようにここで確認しておくと、精神分析のいう「他者の欲望」とは異性への欲望ではない。夫が忘れてしまった欲望――それは自分の妻に対する欲望ではなく、むしろ他の男たちの妻に対する欲望である。若かりし頃の妻と比べて今の妻が見劣りすると夫が感じているとしたら、それは夫の勘違いである。性的魅力が年齢や容姿の衰えとなんら相関関係にないのは、たとえばアダルトビデオの熟女ものや人妻ものが根強い人気を持っていることにも明らかである。しかもこうしたビデオに登場する女性は欲求不満を持て余した淫乱女というよりは、どこにでもいる良妻賢母(「隣の奥さん」)であることの方が多い。「火サス」の妻が愚かであったのは、自分が良き妻であることが不毛な性生活の原因だと捉え、悪女的媚態を示せば夫は興奮するものと勘違いした点にある。彼女がむしろすべきだったのは、良き妻としての自分が、まさにその理由で夫以外の男たちに性的刺激を与える存在となりうることを(たとえば不倫をほのめかすことで)夫に示すことだったのである。
 他者の欲望の対象としての妻――それは愛とはまったく異なる次元に女性が身を置くことであり、彼女はそのときひとりの女性というよりは、すべての男を虜にする象徴的存在としての〈女〉となる。もちろんラカンも言うように、そのような「女は存在しない」。だがむしろ存在しないからこそ、男の欲情を逆に掻き立てると言うことはできないだろうか? そもそも我々男性を興奮させる「隣の奥さん」とは、「隣のご主人」の目に映る女性(妻)というよりは、我々が垣根越しに見る女性(奥さん)である。しかも、この我々自身の妄想によって作り上げられた〈女〉とは、なによりも他者(隣のご主人)にこよなく愛される奥さんであり、我々はまさにこの他者の愛の媒介――ちなみにこれがファルスの最も簡潔な定義である――を通じて、でなければただのありふれた女性を〈女〉として欲するようになるのである。
 と、ここまで述べることで我々は前回予告しておいた課題に議論をつなげることができる。女性を〈女〉として見ること――それは男性が〈男〉に変貌を遂げることでもあり、それはまたすべての男性が生まれながらに持つ不安、すなわち去勢を全面的に受け入れることでもある。ただ、ここで誤解のないように付け加えると、精神分析の言う去勢とは決して男性生殖機能の喪失ではない。ラカンにならえば、それはむしろ「象徴的去勢」――つまり、生殖機能の喪失(「やりたくてもやれない」)ではなく、生殖行為の禁止(「やってはいけないからやりたい」)である。あえて変な言い方をすれば、我々は欲情してはならない対象に欲情を我慢する限りにおいて欲情することができる。我々が勃起する対象はある意味、常に「隣の奥さん」であり、その理由はもちろん彼女が「隣のご主人」の帰属物だからである。
 ところでこの「隣のご主人」は、我々ばかりか当の「隣のご主人」もその場所を埋めることができないという意味で、我々すべての男にとって永遠の他者である。単純に考えてみよう。我々は自分のことを「隣のご主人」と呼ぶことができないが、「隣のご主人」も自分のことを「隣のご主人」と呼ぶことはできない。「隣のご主人」とはあくまで我々にとっての「隣のご主人」であり、一方、彼にとっての「隣のご主人」は我々自身である。ではどうして我々は自分のことを「隣のご主人」と認識することができないのだろうか? 実はその答えとなるのがファルスに他ならない。ファルスとはいうなれば「隣のご主人」のペニスであり、万人が客観的(傍目)には持っていながら、主観的には誰も持っているとは感じないものである。もちろん感じようと努力することは可能である。たとえば我々は自分の妻を欲するとき、それとは知らずに自分のペニスを他者のファルスに置き換えている。その際、我々のペニスは我々の行為を密かに覗き見する他者を触発するファルスとして機能する。ある意味、セックスはそれを傍で眺める他者のために存在するともいえる。すなわち、我々のペニスは他者のファルスの代用品である限りにおいて――つまり「象徴的去勢」を受けることによって――その本来の役目を果たすのであり、いわゆる忘我(エクスタシー)とは自分を忘れ他者になりきることを意味するものである。

 多少話が込み入ってきたので、とりあえずここでこれまで述べてきたことをラカンの言葉を借りて一言でまとめると、「性的関係は存在しない」。確かに我々は愛する妻とセックスをすることが出来るし、実際行っている。だがそれをいえば、人形劇に出てくる操り人形夫婦もセックスをしていることになる。たとえばこの人形たちが、映画『ブレード・ランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)に登場する自分を人間と思いこんでいる「レプリカント」(「複製」)であると仮定してみよう。彼らは互いの欲望に応じてセックスをしていると思っているが、実際には陰で人間に操られている。しかもここでのポイントは、この裏で操作する人物が二人である必要はないということである。事実、『ブレード・ランナー』のレプリカントたちを操作するのは彼らの管理者であるバイオテクノロジー会社の集中制御システムである。同じことは人間の男女のセックスについても言えはしないか? つまり我々は自分の自発的興奮に基づいてセックスをしているようでいて、実際にそれを操作しているのはファルスという象徴化システムではないのか? ちなみにラカンはこのシステムを「大文字の他者」と名付け、我々の目に見える「小文字の他者」(「隣のご主人」)と区別した。後者が我々の前に入れ替わり立ち替わり現れる不特定多数の男たちだとすれば、前者は単一のファルスであり、その所有者は我々にとって永遠の謎である。もちろん人間はあらゆる思考や想像力を駆使してその正体を解き明かそうとし、これをたとえば「神」と名付けたりするが、それで真相が解明されるわけでもなく、我々が唯一知り得ることは、性行為の究極的主体が我々人間自身ではないということだけである。
 ただ、創世記神話のなかで我々に最も不可解な部分は、なぜ神が人間を男と女の二種類に作り賜うたかである。それは、人間の男女にセックスさせる方が、神がひとりで自慰行為に耽るよりも気持ちがいいからか? 仮にそうだとすれば、神の欲望自体、性的差異の力学に基づいていることになり、神は単独者でありながらもファルスの性的対立項を持ち合わせた両性具有者となる。キリスト教をはじめとする一神教における神はもちろん〈男〉だが、多神教という選択肢をとらずに、なおかつ〈男〉と〈女〉を併せ持つ一人の神の存在が可能だとしたら、我々はこの神の名のもと、どのような男女関係を築いてゆけばよいだろうか? この問題は以下に示すように実は今日差し迫った社会問題でもある。神が〈男〉でも〈女〉でもあるということは、神が示す真理が二つに分裂、対立しているだけでなく、それらが互いに欲情しあっていることを意味する。構造主義によると、コンピュータ演算システムにかぎらず世界の森羅万象のすべてが二項対立(=二進法)によって構築されているらしいが、その根本にあるのが従来の男根的〈法〉ではなく、フロイトの言う「欲動」(*1)だとすれば、性的興奮は単なる男女の営みを越えたすべての社会関係の基礎であるということになる。
 たとえば資本主義。そもそも我々は何のために必要以上にあくせく物を作ったり買ったりしているのか? 我々「良識ある」大人は、街で目をギラギラさせながらショッピングにいそしむギャルたちにいい知れぬ不快を感じるものだが、実はそれこそが神の欲動の体現という「至高善」(カント)に他ならないとしたらどうだろうか? 柄谷行人によれば、資本主義が悪であるのは、それが(環境破壊等によって)最終的に人類を破滅に至らしめるものだからである。だがもしそうだとすれば、我々はなぜ資本主義をあえて捨てようとしないのか? このままいけばいずれ地球が滅びることぐらい分かっているにもかかわらず、誰もそれを止めようとしないのは、単に我々が目先の利害や関心ばかりに目を奪われているからだろうか? もしそうだとすれば我々は救いようのない馬鹿ということになり、それはまた本連載の主張(「我々は『救済』にすら値しない」)を裏付けることにもなるのだが、果たしてそれだけで済ませてよい問題だろうか?

 我々はここでフロイトのいう欲動がどういうものかを確認しておく必要がある。欲動とはなによりも「自動性愛」(オート・エロティズム)であり、それと似た概念である欲望との違いもそこに出てくる。すなわち、欲望が「他者の欲望の欲望」で、その対象が常に主体の外側にあるとすれば、欲動の対象はむしろ主体の内側にある。ただ、こう書くと欲動とはナルシズムのことかと思うかもしれないが、そうではない。ナルシストが欲する対象は生の自分自身というよりは、鏡のなかに映る対象としての自我であり、それは主体とは似て非なるものだ。自我はいうなれば主体と最も身近な他者であり、この臍の緒ともいうべき自我を通して他人とつながる(欲望する)ことで、我々は他者に不快を与えない健全なナルシストとなることができる。我々は、「他者の欲望」を「自我の欲望」と思いこむ限りにおいての「中心化された(自律した)主体」であり、ギャルたちを見ても分かるように、自分の欲望に正直な(=買い物依存症的な)人間であればあるほど、他者(資本主義)に忠実になることができる。
 もちろん自分への正直と他者への忠実はまったく同じものではない。買い物依存症者がそのまま資本主義者になれるわけでもないし、ギャルが物を買う能力に長けているとしても、そのまま物を売る能力につながるわけではない。ただ、こうしたギャップ――つまり、作った物が直ちに売れるという資本主義者たちのユートピアと欲しいものが直ちに手に入るという消費者たちのユートピアとの距離は、今日限りなくゼロに近づいている。あえて物議を醸す言い方をすれば、グローバリゼーションはこれまでマルクス主義者たちが夢見てきたものとはまったく別のかたちで共産主義化、社会主義化を具現しているといえる。マイクロソフトをはじめとする大規模多国籍企業への資本の過度の集中が単に商品の均質化に留まらず、流通分配や個々の消費欲の均質化をもうながすとすれば、しかもこの二つの均質化が同一方向に向かって収斂していくとすれば、当然その結果、生産者(資本家)と消費者(労働者)の利害も縮まっていくはずであり、実際、グローバリズムの進行と階級闘争の衰退は軌を一にした動きをみせている。
 こうした収斂の動きを性的力学の観点から捉えたのが他ならぬ欲動である。欲望が男女の性的利害の不一致に力点を置くとすれば、欲動はむしろ一致に力点を置くものであり、男女は予定調和的に互いに相補完する存在同士となる。だがそのようなことが果たして現実に可能となるだろうか? 我々はセックスしたい相手と誰とでもセックスできるようになるのだろうか? もちろんそんなことはない。しかし、それは欲動主体にとってはどうでもいい問題である。そもそも欲動主体とは人間自身というよりは、人間を司る神の欲動を再現する「レプリカント」、あるいは神話の喩えでいえば、禁断の実を食べエデンの園から追放される前のアダムとイブである。アダムが自分の肋骨の一部から作られたイブに欲情を催すことは出来なかったに違いないが、それでも子孫作りのために実際にセックスをおこなったとすれば、そのときアダムは自分の分身のイブにどのようにして勃起し、またイブはどのようにして濡れることが出来たか? ――この謎を解き明かすための仮説が欲動である。それによれば、「他者の欲望の欲望」という「知識」をもたないアダムとイブは、その代わりに「自己の欲望の欲望」である神の欲動をみずから体現することができた。このいわば永遠なる自家発電装置は〈男〉(正極)と〈女〉(負極)の絶え間ない相互反発作用によって維持され、しかも、燃料等の外的資源は一切必要としない。人間が神の名において〈男〉あるいは〈女〉であることの究極的理由はまさにここにある。それはまた人間が資本主義という神の名において生産者あるいは消費者である理由でもあり、我々は今ようやく神への奉仕という楽園喪失このかたずっと怠り続けてきた人間本来の役割に戻りつつあるのかもしれない。

 こうした欲動にまつわるロジックをさらに突き詰めると次のような帰結に至る。男女が自家発電装置の正と負の極でしかないということは、各々の性的同一性が単に異性のそれではないということを示すに過ぎない。しかも正極と負極が互いに反発しあうことで動力がもたらされるとすれば、男女も互いに置き換え可能なものということになる。ただ、その際どちらの方がよりスムーズに入れ替われるかというと、少なくとも現時点では性的上下関係の上にいる男のほうが有利――というより、男のほうがより大きな享楽を貪ることができる。童話『王子と乞食』の喩えでいけば、乞食に「身をやつす」王子と王子に「なりすます」乞食のどちらの方がより享楽的かといえば、当然前者の方である。「苦痛の快楽」(フロイト)という性的エクスタシーの定義を応用すれば、「失うものがない」者(社会的弱者)が何かを得ることよりも、「失うものがある」者(社会的強者)が何かを失うことの方がより苦痛であり、それゆえより強い快楽を味わうことができる。このことは、たとえば女装趣味の男性のほうが男装趣味の女性よりも――あるいはゲイのカミングアウトのほうがレズビアンのそれよりも数が圧倒的に多いという事実にも表れている。なるほど女性の性的逸脱が男性に比べ社会的に容認されにくいのはこうした男女間格差のひとつの要因だろうが、ただそうした見方だけでは快楽は説明できても「苦痛の快楽」を説明することはできない。以前この連載でも紹介した対談本『男を抱くということ』(斎藤綾子、南智子、亀山早苗)は、女性のなかにこれまでずっと抑圧されてきた征服欲、攻撃欲を全面肯定した点ですこぶる画期的な書だが、抱かれること、つまり服従欲や屈辱欲に関しては、女だと「社会的刷り込み」、男だと「マゾヒズム」といった表層的理解で済ませている。
 だがドゥルーズやジジェクも指摘するように(*2)、「苦痛の快楽」とマゾヒズムは、外見は同じに見えても内的法則はまったく異なるものであり、前者は欲動(「自己の欲望の欲望」)、後者は欲望(「他者の欲望の欲望」)と、それぞれ別の心的メカニズムにしたがった行為である。女装趣味の男性を例にとると、女という自分よりも「劣った性」に身を堕すことで他者に優越感を与えることがその動機だとすれば、それは欲望に基づいた行為ということになり、その際、彼が措定する他者は当然、彼と同性の男となる。では男が異性の女を他者として措定した場合はどうなるか? 欲望経済の観点からすれば、それはマゾヒズムをはるかに越えた逸脱行為であり、三大精神病理のなかでも最もたちの悪いものである倒錯症とみなされることになる。これが他の精神病理(精神病と神経症)に比べてたちの悪い理由は、患者が医師の治療を必要としないほど自己完結しているところにある。苦痛という本来であれば取り除かなければならないものを逆に喜びとする彼にとって、病理はいわば人生の糧である。しかも彼はそれで他人に迷惑をかけているわけでもなく、女装することで味わう苦痛が他者への見せ物としてあるわけでもない。
 そもそも倒錯症者が生きるところの欲動経済において、見せ物を観る観客は自分自身、より正確には内なる他者としての異性である。だがなぜ他者は異性であらねばならないのか? それは欲動経済の基本原理である二項対立が欲望経済のそれとは異なるからである。後者からまず説明しよう。先ほどの自家発電のつながりでいえば、欲望経済は「第三項」という外的エネルギーを駆使することで動力を生み出す。最初の議論に立ち戻れば、我々が欲望主体として異性に性的興奮を覚えるとき、そこには常に第三者(「隣のご主人」)が介在している。我々はこの人物が我々を監視しているものと勝手に想像し、その隙をうかがうスリルをもとに性的エネルギーを発生させる。セックスを人前で白昼堂々と行えないのは、それが恥ずかしいからというよりは、文字通りの意味で「人目を盗む」行為だからである。欲望経済に身を置くかぎり、我々は常に罪と隣り合わせに生きている。我々は罪と快楽のあいだで引き裂かれているように見えるが、実は両者はコインの裏表であり、片方がなくなればもう片方も失うことになる。
 だが罪の相対物は快楽ではなく罰ではないのか? 我々は罪をあがなわなくてもよいのか? ――こうした素朴な問いにあえて答えようとするのが欲動主体(倒錯症者)である。彼にとって罪は逃れたり誤魔化したりできる類のものではない。なぜなら、欲動経済において罪を暴き、罰を下すところの他者は、二項対立の第三項というよりは二項のうちの一極であり、もう一方の極にある罪を犯し、罰を受ける主体と自家発電的に相互に反発しあう関係にあるからである。これを女装の例で説明すると次のようになる。男が女に「身をやつす」ことはなるほどいま社会的に容認されつつあるが、それが女の立場を危うくする極めて危険な行為であることに変わりはない。我々はここでニューハーフといった「ありふれたもの」(ベンヤミン)ではなく、むしろ「極端なもの」(同)――たとえば平凡な妻子持ちの男性がある日突然女装をし始めたら、妻はそれにどう反応するか――を思い浮かべるべきである。女装が欲動経済のメカニズムを照らし出すのは、それが抑圧された(女性になる)願望をかなえるというよりは、むしろ実現した(男性になった)願望を捨てる意味においてである。夫の女装にすべての妻が激怒するのは、なにもそれが妻の女としての立場が危うくするからではない。むしろそれ以上に、自分にかなえられなかった夢を実現しておきながら、それを捨て自分と同じ境遇に「成り下がる」ことを妻は女への冒涜、もしくは当てつけと受け取るからであり、その意味で女装はまさに女への犯罪行為である。
 ただ、女装が女への罪であるということは、被害者が自分の妻であるだけでなく、本来は加害者である男も、女装を通じて女となるかぎり被害者の一人になることも意味する。当の本人が同時に加害者でもあり被害者でもあるということ――それがまさに欲動が倒錯的といわれる所以である。だがなぜそうした奇妙なことが起こりうるのか? それは罪を犯す動機が他者ではなく自分自身に危害を与えるためだからであり、倒錯者は罰を受ける、いや受けたいがために罪を犯すのである。しかも我々はここからさらに次のような一般的仮説を導き出すことができる。女装する男性が男装する女性よりも数が圧倒的に勝っているという事実、またより一般的に言えば犯罪者の数が9対1の比率で男に偏っているという事実――それは欲動経済を担う主体がもっぱら男たちであることを暗に示唆するものである。おりしも「女性の時代」と叫ばれる今日、男たちはそれとは別の新たな社会システムを形成しつつあり、それが他ならぬグローバリゼーションである。我々はいま明らかに人類の破滅に向かって邁進しているが、それを食い止めることが出来ないのは、自己目的化した資本主義を前にして我々が無力だからというよりは、むしろ無力であることを望み、そこに「苦痛の快楽」を求めようとしているからではないか? 多くの識者が意見の一致をみる今後のあるべき社会システムといえば天然資源に頼らない循環型経済だが、欲動経済はある意味、最悪のかたちでこのシステムを先取りしている。そこではなにより苦痛が天然資源に替わるエネルギー源として、快楽という生産物を生み出している。しかもそれは他者の助けを必要としない自給自足生産消費システムである。最近の思想の文脈で言うと、ライプニッツのモナド理論の新たな脚光はこうした動きに対応したものであり、我々は他者との関係を絶ち孤立した人間になることで神(=資本主義)の思し召しにかなうことが出来るのである。

 映画『エム・バタフライ』(デビッド・クローネンバーグ監督、1993年)は批評家の評価が甲乙真っ二つに分かれた問題作だが、その理由が映画そのものの出来というよりは、むしろ今述べた欲動経済を観客がどこまで自分自身の問題として捉えられるかにあるとすれば、我々はこの映画を我々の内なる倒錯性を測るリトマス紙として観ることができる。主人公のフランス大使館員ルネ・ガリマールは赴任先の北京でひとりの中国人「女性」と恋に陥るが、この女性は実は男で、しかも中国政府が差し向けたスパイであった。タイトルにある「エム」の英語の表記は「M」、つまり男(ムッシュー)でもあり女(マダム)でもあることを意味する。が、騙されていることに気づかないガリマールは、愚かにも恋人を蝶々夫人になぞらえ、自分が捨てられる立場だとは露も知らず、そのまま恋の泥沼にはまっていく。さて問題はラストシーンである。結局恋人に裏切られ、さらにスパイ共謀のかどでフランス政府に逮捕、投獄されたガリマールは、他の服役囚たちの前で「一世一代のパフォーマンス」を演じる。オペラ『蝶々夫人』のアリアを流しながら、彼は囚人服を脱いでキモノに身をまとい顔に厚化粧をほどこしていく。そして観客に向かって次にように語りかけ、最後には本当の自害を遂げる。

 ――私には東洋のイメージがある。たおやかな女たち。中国服やキモノを着て愛のために死ぬ。取るに足らぬ西洋の鬼どものためだ。完ぺきな女になるべく生まれ育てられる女たち。我々が与えるどんな罰にも甘んじ、愛の力でめげずに耐え続ける女たち。そのイメージが私の人生になった。私の間違いは単純で、決定的だ。愛した男はろくでなし。目をくれる価値もない男だった。なのに与えてしまった、すべての愛を。愛が判断をゆがめ目をふさいだ。だから鏡の中に見えるのは、ただ一つ。私には東洋のイメージがある。そのアーモンド形の目の奥に今もいるのだ、愛のために喜んで身を犠牲にする女たち。それに値しない男のためにさえ身を投げ出す女たち。名誉ある死。不名誉に生きるよりその方がいい。そして、とうとう中国から遠い刑務所の中で、彼女をみつけた。私の名はルネ・ガリマール。またの名をマダム・バタフライ……(強調筆者)。

 この台詞が難解だと思われる読者は、とりあえず映画を観て欲しい。そうすれば、とりわけ傍点部分が欲動のこの上ない説明となっていることがお分かりいただけるはずである。ただ、それでもご理解できなければ、むしろご安心なされたい、貴兄は倒錯者とは無縁のお方である。一方、これを我がことのようにお感じになられた方、自分にも「またの名」があるとお思いになられた方 ――貴兄は非常に幸運なお方である。あなたは一人で二人分の人生を歩めるばかりか、「名誉ある死」を遂げることができる。そしてあなたは「不名誉」な生き方(欲望)を選んだ者たち対してガリマールと同じ言葉を叫ぶであろう。「君らは私のところへ来てせがむだろう、秘訣を教えろと。なぜなら私は完ぺきな女に愛された男だからだ……」。




*1 欲動は精神分析概念のなかでも最も難解なものである。筆者はこの概念を理解するために以下の論文・著作をとくに参考にした。フロイト、「本能とその運命」、「快楽原則の彼岸」(『フロイト著作集6』小此木啓吾訳、人文書院、1970年)、ラカン、『精神分析の四基本概念』(ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之、新宮一成、鈴木國文、小川豊昭訳、岩波書店、2000年)、Zizek, Slavoj, "Passionate (Dis)Attachments, or, Judith Butler as a Reader of Freud," in The Ticklish Subject: the Absent Centre of Political Ontology (London: Verso, 1999), Laplanche, Jean, Life & Death in Psychoanalysis, trans., Jeffrey Mehlman (Baltimore: The Johns Hopkins Press, 1970), Boothby, Richard, Death and Desire: Psychoanalytic Theory in Lacan's Return to Freud (New York: Routledge, 1991), Verhaeghe, Paul, Beyond Gender: from Subject to Drive (New York: Other Press, 2001).

*2 Deleuze, Gilles, Coldness and Cruelty (New York: Zone, 1991), Zizek, "Passionate (Dis)Attachments," pp. 280-81.

清田友則(きよた・とものり)
名古屋芸術大学講師。専攻:文化政治批評。