今回は前回の議論の補足である。

 前回私が述べた議論を一言で要約すると、「これから自分自身の手で自分を否定する〈男〉」と「すでに否定された〈女〉」の結び付きは崇高性を帯びる――というものであった。もちろんこう書いただけでは何のことやらさっぱり分からないだろう。だが翻って、この理解不能な抽象性のなかにこそ、むしろ事物の核心が潜んでいると言うことは出来ないだろうか?
 なるほど具体例の提示等によって「ああ、そういうことか」と理解した気持ちにさせるのは簡単である。実際、私は上記のテーゼを正当化する際、『デッドマン・ウォーキング』という誰でも容易に理解鑑賞できる映画テキストを引き合いに出したのだが、仮に私の解釈が全面的には受け入れられないとしても、二人の主要登場人物が自分の意志で死刑に臨む強姦殺人犯と、自身の世俗性を神の名によって否定された尼僧であることについては同意していただけるであろう。
 ただ問題はそこからである。おそらくいまだ読者の合点がいかないのは、我々一般人とはおよそ無縁のレイプ魔と尼僧(「極端なもの」)が一体どうして我々を代表(=代理表象)するのかという点だろう。私はこの点についてこれまで幾度となく説明してきたが、それでもなおこれが受け入れがたいのは、確かに常識的に考えればあまりに理不尽なことを私が唱えているからであろう。

 理不尽といえば、晩年のフロイトも常識からかけ離れたことばかり唱えたものだった。臨床医として日々接する神経症患者たちと我々健常者が同心円上にあるという見解は分からなくもないが(我々もときには「ヒステリック」になる)、これをさらに一般化、いや神話化して、エディプスやナルシスやモーゼのなかに人間の心の起源があると言われると、我々は途方に暮れてしまう。それは臨床的にいっても意味のある行為なのだろうか? 精神科医や心理カウンセラーから「あなたの症状は予期不安からくるパニック障害です」と告げられるよりも、「これでようやくあなたもエディプスの心境が理解できるようになりましたね」と我々は言われるべきなのだろうか?
 ──もちろん我々は断じてそう言われるべきである。いやそれ以前に我々はそう言われる立場に進んで身を置いている。たとえば映画をはじめとするあらゆる表象装置において、我々は自然かつ積極的に自分とはまったく異なる人物たちに欲望を仮託しようとしている。現実世界における同一化の対象は言うまでもなく我々自身だが、虚構表象はこの対象(フロイトの言う「理想自我」、あるいはラカンの言う「想像的自我」)をいわば白紙に戻し、そこに新たな別の自我を導入する。後者は定義上、自分の自我以外の何であってもよく、表象装置はそれに関する観客側の予備知識や先入観(「強姦殺人犯はケダモノ以下である」、等々)をあらゆる手段で妨害する。いきなり「君の真実はエディプスだ」と言われれば我々も戸惑ってしまうが、自我がデフォルト状態にあれば、エディプスどころか誰に対しても感情移入が可能となる(*1)。もし出来なければ、妨害の仕方(映画の作り方)に問題があるか、我々自身が病理的かのどちらかである。
 もちろん我々にとって問題となるのはあくまで後者の場合である。神経症、とりわけ鬱病(フロイトの用語では「メランコリー」)を患う者は自分の自我に窒息するほど縛られた者のことである。これは私にも経験があることだが、以前、私は映画への没入が非常に困難を伴う時期があった。作品を楽しもうとする気持ちが義務的、強迫観念的になってしまい、自我から別の自我(=他我)への移行がスムーズにいかなくなってしまったのである。自我の拘束は「自己同一性の確立」といった望ましい方向へは向かわない。自我に縛られた者は、他人はおろか自分に対してすら「感情移入」が出来にくくなる。それはなぜか? もっとも自由に操れるはずの自分自身に、どうして逆に縛られなければならないのか?
 それは自我(「ego」)が自己(「self」)でも主体(「subject」)でもなく、畢竟、鏡に映る像(表象対象)にすぎないからである(*2)。自我に縛られることは、つまりモノとしての自分に縛られるのと同じであり、それが本人にとってかけがえのないものであればあるほど、結果として自分の首を締めることになる。自我は対象の次元に属すかぎりにおいて他のあらゆる対象と質的に等価なもの、交換可能なものである。ところが神経症者は他者に対して自分の自我をついつい出し惜しむ。欲望が本来「他者の欲望の欲望」(ラカン)だとすれば、神経症者はこれをいわば「自我の欲望の欲望」へとねじ曲げ、自家発電的に蕩尽する。譬えて言うなら、それは同じアダルトビデオを繰り返し見続けるようなものである。「健全な」性欲の持ち主であれば常に別の新たなものを見たがるところだが(それはそれでよく考えてみれば変な話だが)、神経症者はこの「当たり前」のことがなかなかできない(*3)。かといってナルシストのように自分の鏡像にうっとりすることもできない。彼にできるのは、ただただ自分と向き合い、日増しに萎える欲望をもってこれに対処するだけである。

 このように、自我に固執すればするほど「自我感情のいちじるしい低下」(*4)(フロイト)を招くという矛盾が神経症の基本メカニズムである。とはいえフロイトによれば、すべての近代人が多かれ少なかれ神経症的であり、善良で感受性に富む者――ちなみに筆者によれば、善良なる者の政治的分類は左翼、感受性に富む者の文化的分類は芸術家である――はとくにそうである。ところで大江健三郎といえば、両者を極限まで統合させた作家だが、時代はというと、残念ながらどちらに対しても向かい風である。そうしたなか、最近の氏が「子ども」というフィギュアのなかに左翼と芸術の弁証法的止揚を試みているのは、自我との絡みからみても興味深い。氏はあるインタビューのなかで「子ども」について次のように述べている。

 小さいときは、文化人類学のイニシエーション(通過儀礼)のように、ある扉を開ければ大人になると信じていた。しかし、そんな扉はなかった。僕たちの切れ目のない生活、一つの文化の中で生きて死んでいく生活には、イニシエーションがない。子どもをもち続けて成長し、死ぬのだとわかったのです。子どもの時に知っていたことは今も知り、感じていたことは今も感じている。子どもの中にすべてはあり、最後までそれから逃れられない(*5)

 この文章にも伺えることだが、大江のインタビューはひとつの逆説を帯びている。大江はここで子どもへのメッセージという体裁をとりながら、明らかに大人に向けて語りかけている。氏が名目上語りかけている「子ども」とは、実際には今日の我々が意味する子ども、つまり大人になりたがらない子ではなく、大人になりきれない大人である。この差は微妙だが、このなかにかつての通過儀礼と異なる我々独自のイニシエーションがあると捉えるならば、大江の逆説も理解できる。すなわち、人は人生のどこかでそれまでの大人になりたがらない子どもから大人になりきれない大人へと脱皮、成長するのである。我々はそもそも大人になることが何を意味するのかを問う前にまず大人にならなくてはならない(今日の形骸化した成人式はまさにそのためにある)。そしてとりあえず大人になり、これを身をもって自覚してはじめて、「子どもの中にすべてはあり、最後までそれから逃れられない」ことを悲哀とある種の感慨をもって悟るのである。
 「逃れられない」存在であると同時に、(大人になることで)失われた存在でもある「子ども」――これはある意味、自我にも当てはまる。自我の逆説は、主体の中心的かなめとして機能しながらも、鏡に映る像として主体から永遠に疎外されている(あるいは主体を永遠に疎外する)ところにある。鏡を見る自分と鏡に映る自分は決して同一のものではない。にもかかわらずこれらを同一視しようとするのがまさに精神分析がいうところの「主体」であり、「私は私」の絶対的自己矛盾を受け入れることが「主体性」の発露である(「正常な人は己れの内的ディスクールの大部分を真面目に受け取らない」(*6))。ちなみにこの矛盾が「止揚」されてしまうと精神病となり(主体の「歴史の終焉」!)、逆に矛盾のバランスが崩れ、「私は私」の述語部分(=自我)が突出してしまうと神経症になる。「自分へのこだわり」や「自意識過剰」といった通俗表現が力点を置く「私」は、主語としての「私」(行為主体)ではなく述語としての「私」であり、そこでは自分の自我を「見つめる」ことが何かを「行う」ことの代償行為とみなされている(*7)

 大江に代表される左翼芸術家たちにとって、創作活動(独自の想像力によって「見た」世界の表象)はそれ自体ひとつの実践となっており、もともとは述語であった「私」が主語(主人公)の役割を果たしている。ところでこれは多くの批評家がすでに指摘していることだが(最近では三浦雅士の『青春の終焉』(*8))、漱石や二葉亭四迷にはじまる日本近代文学の主人公はみな大人になりきれない「青年」たちであった(*9)。一方、村上春樹や吉本ばなな以降の最近のポスト近代文学においては、大人になりたがらない子どもたちが主人公として幅を利かせている。大江の「子ども」はこのどちらにも与していないが、それは大江の(定義上大人であり近代人でもある)左翼芸術家としての矜持の表れでもある。
 大江は今日の左翼が歴史のたそがれを生きているという現象学的現実を芸術家としてまず直視する。そしてそのあと内省的に振り返る対象(=自我)が「子ども」である。インタビューのタイトル「それでも[子どもに]希望を託す」の「それでも」にはどこか悲壮的なニュアンスが含まれているが、その背後に読み取れるのは、氏の終末論的ともいえる現状認識(「我々の滅びの日は近い」)に加えて、自己(作家)としての大江と自我(「子ども」)としての大江の乖離である。そこには、これまでの「(自己と自我が)統合された実践主体」という左翼神話をもはや信じることのできない「良心的左翼」の姿も垣間見える(逆にこれをまともに信じることが出来るのが「教条的左翼」やレーニン主義者たちである(*10))。
 大江は「おそらく僕は新しい希望を確信することなく死ぬだろう」とみずからの実践主体として可能性を悲観視するが、それでも自身の作品に描かれる「子ども」(自我)に対しては実践主体としての希望をなおも保持している。我々は氏のこうした乖離に「統合失調症」(精神分裂病の最新名)などといった安易な診断を下すべきではない(*11)。なるほど大江の主体性がある種の変調をきたしているのは明らかだが、では統合された主体が倫理的立場からいって正しい主体かというと、そうではない。「新しい希望を確信することなく死ぬ」のは大江に限らず多くの大人の偽らざる気持ちでもあるだろう。だがこれと自己同一性の矛盾をきたさぬために自分の内なる「子ども」――それは「希望」の最後の砦である――を放棄することは、決して倫理的に許されることではない。たとえば下記のようなことを平気で言える人間が仮にいたとしよう(事実たくさんいる)。「わしら、あと何年かしたら辞めるんだよ。何で未来の人に遺産を残さなきゃいけないの。次の人がやってくれればいい」(あるプロ野球コミッショナー事務局関係者の発言より(*12))。このような人物が我々の目にかくも醜く映るのはなぜか? それは、文字通り彼らが「未来の人に遺産を残」さず、あとの世代――それはもちろん子どもたちである――にすべての尻拭いをさせようと目論んでいるからだ。ただここで忘れてならないのは、子どもたちが我々自身(の自我)でもあるということだ。つまりこの種の人物に我々が深い憤りを覚えるのは、彼らが子どもたちを見捨てることで同時に我々の自我を否定するからで、必ずしも我々が子ども思いだからではない。
 我々は自分の自我を心底愛している。とりわけ神経症者は他者(=他我)に目移りできないほど「私」という名の対象に釘付けになっている。しかし自我は我々のこの切なる気持ちに酬いてくれたりなどはしない。不眠症患者は「眠ってくれ!」と自分に哀願すればするほど逆に頭がさえてしまうものだが、それと同じことが「私」(自己)と「私」(自我)のあいだにも起こっている。「恋は盲目」どころか眩暈を起こすほど明るすぎるのが自我愛であり、真っ暗なのはむしろ自我に照らされる自己のほうである。
 ただ逆の見方もできる。「希望を確信することなく死ぬ」というとき、大江は確かに真っ暗なほど絶望しきっている。だが、にもかかわらずそこにほのかな〈光〉(これは大江が溺愛する息子の名前でもある)が見いだされるのは、この真っ暗な自己によって照らし出される自我(「子ども」)のなかにそれでも一縷の「希望」が託されているからだ。でなければ、この言葉も上記のプロ野球関係者のそれ同様、悪しき現状への居直りにしか聞こえないはずである。

 ところで氏の親しい友人の話によれば、大江は知的障害を患う息子に殉死する覚悟でいるという(「光が死んだら大江も添い死するのではないか」とその友人は危惧していた(*13))。真偽のほどはともかく、息子が健常者――それは大人(になりきれない大人)であることの資格でもある――ではないという事実が大江の子どもたちへの並々ならぬ思いとどこかつながっているだろうことは容易に察することができる。殉死とは尋常ではないが、これを永遠の子どもに添い遂げるという風に解釈すれば、気持ちは理解できなくもない。そもそも自我に苦しむ者とは、厳密には自我を「不動的物体」(ラカン)(*14)として自分自身の本質と捉える者のことであり、自我の成長が断たれたという意味では永遠の子どもである。大江は、「大人が明日を信じられないのに、子どもに信じてくれというのはこっけいで、無責任にちがいない」と前置きした上で、「だが子どもに託す希望というものは、本来そういうものではないか」と読者に訴えるが、それは氏自身の内なる子ども(=自我)を肯定することでもある。
 もちろん我々はこれを単なる自己への開き直りととることはできない。大江は自分を良くみせるために他者を利用したり、自分の価値観を押しつけたりするような人間ではないし、インタビューのなかでも「僕などは自分と同じ人間ができれば、どんなにつまらないことだろう」と語っている。大江がそもそも真剣な議論の名に値するのは、左翼の真にあるべき姿、つまり良心の証としての自己批判を行うことにかけて氏の右に出る者はいないからである。そうした氏のどこかにもし問題があるとするならば、我々凡人はそれに輪をかけて問題があるとみなさなければならず、ノーベル賞作家大江健三郎ですら解けない問題を我々に解けるはずがないという風に消極的に捉えるべきではない。そもそも凡人の凡人たる所以は、解ける解けない以前にそれを解こうとすらしない(問題とすらみなさない)ところにあり、こうした我々の凡庸度、いや堕落度を測る積極的目安として大江の見解をむしろ捉えるべきなのである。
 私は本連載のタイトル「我々は『救済』にすら値しない」の「我々」が筆者自身を含む我々すべてであることをこれまで強く強調してきたが、それは、我々すべてが抱える問題がまさにその意味で、つまり誰もが一様に堕落しているという意味で時代の限界を指し示していることを言わんがためであった。ただ、ここには逆説もある。というのも、我々は堕落することで時代の限界を示す一方、この時代の限界から目をそらすことでみずからの堕落を表す。つまり我々は堕落を自覚していない点においてまさに堕落しており、だからこそ大江のような「極端なもの(=意見)」によってこれをはっきりと提示される必要があるのだ。
 我々がなによりもまず認めなくてはならぬこと、それは我々すべての大人(になりきれない大人)が内心密かに感じていながら、「裸の王様」の群衆同様、誰にも口に出して言わないあるひとつの不安であり、これを大江は「僕は新しい希望を確信することなく死ぬだろう」とはっきり言うのである。ただ、もちろんそう言えば片がつく問題ではない。実際、我々がこれまで主に議論してきたのは、むしろ自分への希望をかなぐり捨て、それを次世代の子どもたちに委ねる態度の問題であり、なぜこれが問題かというと、希望を託すべき子どもが果たして次の世代、つまり未来を持っているかどうか疑わしいからである。
 上に述べたように、大江の言う「子ども」は子どもの要素を純化した子ども、言うなれば永遠の子どもである。しかもそれは未来に永遠に横たわる子どもというよりは、今そこに永遠に存在する子どもであり、その限りにおいて未来から閉ざされた子どもである。そうした子どもに「託す」希望とは一体何か? この問いへの大江の答えは次の通りである。「人間とは理由もなく元気をだしてきたと子どもに伝えて、励ましとしたい」。これは大江にしてはめずらしく曖昧な表現だが、ポイントはおそらく「励まし」という言葉だろう。ただそれは誰に対する励ましか? もちろん大江本人である。すなわち「希望を託す」行為とは、託す対象(「子ども」)というよりは託す主体(大江自身)に関わる行為であり、最後に自分を「励」ますために、まず自分への希望を放棄し、次にこれを他者の手に委ねるわけである。
 このように換骨奪胎してしまうと元もこもない議論になってしまうのだが、その原因の源にあるのは再三述べてきたように自己(行為主体)と自我(鏡像=対象)の乖離である。すなわち一方で「人間とは理由もなく元気をだしてきた」と自己がこれまで行ってきたことを肯定し(もちろんそれで報われるわけではない)、かつ一方では「希望を確信することなく死ぬだろう」と、それが今後も報われないだろうことを鏡に映る自分のなかに確認するという二律背反――これを大江は「励まし」と受け取ることで自分を慰めるのである。
 さて我々はそういう大江の心的思考にどのような評価・結論を下すべきであろうか? 突然だが、ここで話は振り出しに戻る。我々がはじめに議論していた事柄とは、なぜある種の人間は他者への感情移入がすんなりといかない(自我を白紙に戻せない)のかという素朴な疑問であった。我々がそこで暫定的に下した結論は、それが神経症の症候だからという説明とはいえない説明であった。いま我々は大江を論じてきたことでこれよりは多少説得力のある答えを用意できる。それはこういうことである。すなわち、ある種の人間は他者への感情移入をする必要がないほど自己完結しているのではないかと。もちろんここでいう自己完結は主体の統合を意味するものではない。これまで述べてきたように、大江の自己と自我は乖離している。が、にもかかわらずそれらが大江の内部で完結しているとみるならば――しかも同時に大江ほど他者の存在に対して敏感な作家はいないという事実を考慮すれば――我々は大江の内側に他者が潜んでいると考える以外になく、大江はこの内なる他者に対して感情移入していると捉えるべきなのである。
 我々の議論でいけば、この他者とは、「最後までそれから逃れられない」大江の内なる子どもであるが、それはまた同時に大人になりきれない大人の自我でもあり、しかもそこには明らかな「自我感情の低下」(「希望を確信することなく死ぬだろう」)がみられる。感情移入といえば、普通はそこから何らかの見返り(感動、忘我、自己陶酔、etc)がもらえるところだが、大江にはそれがない。我々はこの理由をおそらくふたつの側面から一般的に説明することができる。ひとつは、真の左翼は自己の行為への見返りを決して期待してはならないということ。ふたつ目は、他者はその定義上、決して自己に見返りを与えず、ずっと謎のままであり続けるということ。これらふたつを自身の内部で自己完結させようとする大江は、そういう自分を「理由もなく元気をだしてきた」といたわるものの、(大人としての)疲労の跡が伺えるのもまた事実である。
 もちろんこの疲労は大人になりきれない大人だけでなく左翼全般が抱える制度疲労でもあり、疲れれば疲れるほど出口がさらに塞がっていくのが、今日の左翼が政治的に抱える問題である。ならばいっそのこと出口を完全に塞いでしまったらどうかというのが筆者の個人的意見だが、実は大江自身それに近いことを言っている。氏は言う。「これから育つ子どもには、崩壊の向こうに新しい文明、新しい文化があると信じてほしい」。ここでいう「崩壊の向こう」とはもちろん出口が塞がってしまったあとの世界であり、「これから育つ子ども」以外の者にとっては「新しい文明、新しい文化」であるという以上の具体的な言葉では言えない表象不可能な世界である。新たな世界の表象を職務とする近代作家にとって、これがまったくの敗北宣言であることは言うまでもない。大江はいまも筆を断ってはいないが、子ども向けに書かれた最近の小説が未来に開かれているかというとそうではなく、登場人物の子どもにしても、「これから育つ子ども」というよりは、すでに大人になってしまったかつての子どもたちばかりである。
 こうした後ろ向きの姿勢は最近の左翼(たとえば加藤典洋)についても言える。これまでの左翼運動を「内省的」に振り返るのはよいとしても、言説の行間に漂う未来との断絶に対する彼らの態度は内省的というよりも絶望的である。ちなみに私はといえば彼らに劣らず絶望的だが、次の点で若干見解が異なる。我々が絶望すべき対象は、「これから育つ子ども」に開かれた未来というよりは、「これから育つ子ども」ではない我々に閉ざされた未来である。大江も言うとおり、我々に未来を開ける手段はもはや残されていない。であれば、未来をみずからの手で閉ざすのもひとつの道ではなかろうか?
 もちろんそこには男女の微妙な差異がある。『デッドマン・ウォーキング』のテキスト分析からも導きだされたように、〈男〉はこれから自分自身の手で自分を否定し、〈女〉は否定する以前にすでに否定されている。なるほど後々の世代に「希望を託す」ことは必要かもしれないが、何を託せばよいのか分からないのに「希望を託す」のはあまりに無責任だ。我々にはそれ以前にやるべきことがあるし、それを大江は自分の内なる子ども(=自我)に対してちゃんと行っている。そう、我々がまずなすべきことは、自分の自我に「絶望を託す」ことである。そうすれば、とりあえず『デッドマン・ウォーキング』の登場人物たちにも感情移入できるようになるし、なによりも自我の呪縛(=神経症)から片時なりとも解放されるかもしれないのだ。




*1 その意味で映画の最良の観客は子どもである。筆者は小学生時代、毎晩のようにテレビの洋画劇場を観ていたが、当時流行のアメリカン・ニューシネマを含め、ほとんどの映画を楽しむことができた(ローレンス・オリヴィエの『ハムレット』はあまりよく分からなかったが、理由は台詞が早すぎて字幕についていけなかったためである)。逆に今はいろんな価値観や先入観が介入するせいか、歳をとればとるほど楽しめるものが少なくなっていく。とくに思想やイデオロギーが絡む作品には白黒がはっきりとつく。殺人犯への感情移入は今もできるが、アメリカ大統領が人類を救うといった露骨なアメリカ覇権主義賛美の映画(たとえば『インデペンデンス・デイ』)には嫌悪感を持つ。ただこれも最終的には映画の作り方次第である。私はテロリストに思想的にも心情的にも共感することの多い人間だが、テロ撲滅を主題にした『ダイ・ハード』シリーズは結構楽しめたし、私はフェミニストでありながら男根主義者ヒッチコックの映画(とりわけ『サイコ』や『めまい』)にサディスティックに興奮したりしている。

*2 これらをはっきりと峻別したのはフロイトというよりはラカンであり、彼によればフロイトはこれらをしばしば混乱した形で用いている。ラカンの自我に関する著作としては以下のものを参照のこと。『フロイト理論と精神分析技法における自我』(上下刊)、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・鈴木國文・小川豊昭・南淳三訳、岩波書店、1998年。『精神病』(上下刊)、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・鈴木國文・川津芳照・笠原嘉訳、岩波書店、1999年。なお邦訳はないがラカンの自我論に関する筆者の知る限りもっとも分かりやすい注釈書として、Richard Boothby, Death and Desire: Psychoanalytic Theory in Lacan's Return to Freud (New York: Routledge, 1991)がある。

*3 ただサブジャンル的観点からみれば、ある意味、すべての人間が同じアダルトビデオを繰り返し見続けているともいえる。レンタルビデオショップでバイトする学生から聞いた話によれば、どの借り手にも偏った「趣味」や「傾向」があり、たとえば「熟女モノ」が好きな男性はそれ以外のジャンルにはまったく見向きもしないという。

*4 「悲哀とメランコリー」、『フロイト著作集6』、井村恒郎訳、人文書院、1983年、139頁。

*5 「それでも希望を託す」、朝日新聞2002年1月5日朝刊。聞き手由里幸子(編集委員)。なお以下の引用文も同記事より。

*6 ラカン、『精神病』上、204頁。

*7 さらに主語と述語が入れ替わり、述語としての「私」が主体の中心に居座ると倒錯症となる(ちなみにフロイト・ラカン精神分析の三大病理学は、精神病、神経症、倒錯症である)。

*8 三浦雅士、『青春の終焉』、講談社、2001年。

*9 「青年」という言葉の近代史的起源については、木村直恵、『〈青年〉の誕生:明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、1998年)参照。

*10 とはいえ「良心的左翼」でも「教条的左翼」でもない「第三の道」を選ぶ左翼も最近出はじめており、私はこれを(語の最良の意味を込めて)「テロリスト」と呼ぶ衝動に駆られている(というよりは、ポスト同時多発テロ以降、反米、反グローバリズムの戦いはすべて「テロ」であり、逆に親米、親グローバリズムの戦いはすべて「戦争」である)。たとえば地域通貨運動(「NAM」運動)にコミットする柄谷行人とそのシンパ(浅田彰、村上龍、坂本龍一他)、左翼の派閥闘争を一切無視したゲリラ活動を展開する宮崎学とその下部組織(「突破隊」)、より思想的なレベルでは、ラカンの「第二の(自)死」という標語のもと象徴社会体系の打破・超克を企てるスラヴォイ・ジジェク。
 こうした言論・言説闘争がどの程度の社会的インパクトを持ちうるかは今のところ未知数だが、これらと「政治的無意識」(フレドリック・ジェイムソン)のレベルで密かに連動する様々なNGO組織やサブカルチャーの動きはいまや「メジャー」の域に達している。たとえば「平凡なノンポリサラリーマンでもテロリストになれる!」というメッセージを世に問うた映画『ファイト・クラブ』はインディー系どころかれっきとしたハリウッド商業娯楽映画であるし、一連の宮崎駿アニメの主人公たちも見方によっては立派な反体制主義者である。先の同時多発テロにしても、我々(の少なからず)がビルの崩壊「シーン」で歓喜に身を震わせたのは紛れもない事実であり、「それとは知らずにそれ(=テロ)を行っている(=荷担している)」というマルクスの偽意識概念はとりわけ今日の文化表象レベルにおいて応用可能である(逆に、表象ではない直接的テロ行為は政治的にも倫理的にも許されないとみずから規制してしまうのが今日の左翼が抱えるアポリアである)。

*11 仮にそうだとしても、診断という行為に止まることは決して正しい臨床態度とはいえない。言うまでもなく、診断は臨床の単なる出発点にすぎず、治療はその後の対話プロセス如何にかかっている。ところが残念なことに日本の精神医療はこの肝心な点を制度的にも言説的にもおろそかにしており(それが日本の医療が「封建的」と非難される所以である)、この傾向は投薬治療主義者ばかりかフロイト・ラカン精神分析家たちにまでも及んでいる。たとえば斎藤環。そのしばしば驚嘆すべき洞察力にもかかわらず、氏の著作は詰まるところ分裂病か否かを問うただの分類学にすぎず、対話の要素は著作のどこにも見あたらない。斎藤は『文脈病:ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』(青土社、2001年)のなかで、完璧な初見診断(氏の造語を使えば「一発診断」もしくは「一瞥診断」)という医師としての究極の夢を語っているが、だとすればフロイト・ラカンがその膨大な精神的、肉体的エネルギーを費やした患者との対話の意味は一体どうなるのか? 筆者は斎藤が論じるラカンが私の理解するラカンとはまったく別人物のように思えてならないのだが、プロの医師でないため同じ土俵で議論できない(いや、させてもらえない)のが辛いところである(臨床に携わらない者は精神医学会に参加することすら許されない)。
 診断のための診断は対人的にみても悪質な行為となりうる。筆者の個人的エピソードを持ち出せば、私が以前あるインターネットのチャットに入れたカキコに対して、みずから精神科医と名乗る人物から私にではなく別の参加者に「あの人物は人格障害の疑いがある」と書いてよこした。私が実際に人格障害者かどうかはさておくとしても(そうかもしれないし、そうではないかもしれない)、直接会ったこともない人間を「診断」することにどんな意味があるのだろうか? 私はそう告げられることでタダで「治療」して頂いているのだろうか? 仮にもしそうだとしたら、「人格障害は治療困難」という氏の言葉から私は「患者」として一体何を学び取ればよいのだろうか?

*12 「日本プロ野球を救え」、『アエラ』、2001年12月31日―2002年1月7日合併増大号、82頁。

*13 カリフォルニア大学教授マサオ・ミヨシ氏から筆者が直接聞いた話。ちなみに氏は大江のノーベル文学賞受賞の陰の立て役者とも言われている。

*14 Death and Desireからの孫引き。P.27.

清田友則(きよた・とものり)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。