今回は難問だ。前回「ヒステリー」からの流れで、今回のテーマはいよいよ「女性」をあつかう。これこそは、人類史上永遠の謎の一つ。こんなむずかしいテーマを、ここで扱いきれるものなのだろうか。もちろん、そんなことは無理だ。じゃあ何で取り上げるかって? ラカンの「誠実さ」を知ってもらいたいからだ。彼はラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクみたいに、なんでも早口で調子よく説明してしまおうとはしない。むしろ精神分析が扱いきれない対象には、その限界をきちんと踏まえて、限界がなぜ存在するのか、そちらのほうを指摘しようとする。けっして「精神分析で何でも切れる」と考えていた人じゃないんだ。いちおうそのことは、知っておいてほしいな。
 で、彼が精神分析の言葉で語り得ないとしたもの。その一つが「女」だ。
 女が語り得ないって? ちょっと辞書を引いてみよう。「岩波国語辞典 第五版」には、たとえばこんなふうに書いてある。「人間の性別の一つで、子を産みうる身体の構造になっている方。男でない人。女子。女性。婦人。」これはこれで、りっぱな説明だ。だいたい、これで十分じゃないのか?
 それが十分じゃないのだ。そもそも精神分析は、男女の性差を身体の違いでは考えない。フェミニズムの言葉で「ジェンダー」というものがあるよね。これは、体の性差(こっちは「セックス」だ)とは関わりなく、人間の社会・文化的な性差を指すときの言葉だ。これをイメージしてもらえば、けっこう近いんじゃないかな。ただ、精神分析は、ジェンダーよりももっと厳密で、抽象的な形での性を問題にする。それも、ちょっと考え過ぎじゃないのってくらい、徹底してやる。これは、「性」の問題が、精神分析とは切っても切れないくらい、深い関係にあるためだ。
 そもそもフロイトが、この問題にはずいぶんと頭を悩ませていた。あげくに答えを投げ出すようなことを書いたりしている。たとえば「女性が何であるかを記述することは精神分析の仕事ではない」「精神分析の仕事は、どのように、両性具有の傾向を持つ子供が、ひとりの女性になるのかを研究することである」みたいにね。また「女性は何を欲するのか」という永遠の難問を問いかけたのもフロイトだ。まあ、子供はみなエディプス期を経て大人になると、そこまではいいとしても、この過程は、男の子と女の子とではまた違ってくる。このことは第7回でもふれたよね。
 この「謎」は、ラカンになると、もっととんでもないことになる。彼はなんと「女は存在しない」なんて言い切ってしまっている。世のフェミニストからいっせいに反発されそうな言葉だけど、僕が知る限りじゃ、いちおう「わかっている」フェミの人ほど、この言葉には好意的だ。ラカンその人がどうだったかはともかく、この言葉そのものは、女性性の謎に対する、ひとつの誠実な答えだからね。
 「女は存在しない」という言葉をもっと判りやすく言い換えるなら、「女性を言葉で明確に定義づけることはできない」というほどの意味になる。じゃあ、そう言えばいいだろうって? いやまあ、そりゃそうなんだけど、この言葉には、実はほかにも、いろんな意味がたくさん塗り込められている。「言葉で語り尽くせない」というのは、その中でも、いちばん判りやすい「意味」なんで、それだけがただ一つの説明なわけじゃない。いろんなとらえ方があるからね。
 それじゃあ、男は明確に定義づけられるのかって? うん、もっともな質問だ。回答しよう。それは可能だ。男とはペニスを持つ存在…と言いたいところだが、ラカンはこれにひとひねり、加えている。そう、男とはファルス、つまり象徴的なペニスを持つ存在のことだとね。性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない。そして、そもそも言葉の世界である象徴界は、ファルス優位のシステムになってる。人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入するんだって話は、前にしたよね。だから極論するなら、なにかを語ることを含めて、言葉による活動は、どうしても男性原理的なものが優位になりがちだ。
 余談になるけど、よく言われるように、女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。いや、もちろん「文筆家」や「思想家」はいるけどね、たくさん。でも、哲学者となると、とたんに見あたらなくなる。僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。この場合の言葉って言うのは、精神分析の言葉みたいに隠喩的なものじゃなくて、むしろ、きわめて限定された意味を指し示す記号に近いものになるわけだけれど。そういう業界に女性が少なく男性が多いという傾向と、象徴界が男性原理的な領域だってこととは、どこかつながっている感じがする。
 だから、そんな象徴界のなかでは、女性は「男性ではない」という否定的なかたちでしか示すことができない。言い換えるなら、女性を積極的に指し示すような言葉、つまりシニフィアンは存在しないんだね。だから僕たちは、女性についてはその特徴をひとつひとつ足し算するみたいに述べることしかできないわけだ。「優しい」、「柔らかい」、「包み込むような」、「菩薩である」、「まるで夜叉だ」とかね。そして、こんなふうに、どんなに多くの女性の性質を数え挙げても、すべてをつくすことはできない。よって「女性はすべてではない」ということになる。
 ちょっとむずかしく言うなら、象徴界において男性は、ファルスを中心として「男はこれで全部」というような、閉じた集合をつくっている。ところが女性の集合は「これで全部」という具合には閉じていない。したがって「女性一般」なるものは存在しないことになる。これをラカンは「女は存在しない」と表現するわけだ。
 だから分析家にとって、女性というのはなんとも神秘的な存在なんだ。いままでみてきたように、男性と女性というのは、いろんな意味で非対称的な存在だ。男性を裏返すと女性になるっていうわけじゃない。とりわけ欲望のあり方は、まるで違った方向を向きあっている。だから、「女性の謎」っていうのは、男性にとってだけの話じゃない。ラカンによれば、女性にとっても、女性は謎の存在なんだね。前回ふれたヒステリーの問い、「女とは何か」が、男性、女性、どちらのヒステリーにも共通する問いかけだっていう意味は、そういうことでもある。誰にとっても謎の存在だから、そういうはげしい問いかけの対象になるわけだ。もう一つ補足するなら、ラカンはこうも言っている。「異性愛者とは、男女を問わず、女を愛するもののことである」とね。これについては、あえて解説しない。ここまで読んでくれたひとなら、なんとなく判るんじゃないかな。
 
 さて、この問題に関連してラカンの言った言葉で、もう一つ有名なものがある。「性関係はない」というのがそれだ。これだってほとんどの人が「そんなバカな」と思うだろうね。「そうであったらどんなに良かったか」とか思っちゃった人は、これはそういう話じゃないから注意するように。
 こちらを説明するには、まず「享楽」の説明からしないといけない。でも、これがまた、むずかしいんだな。これは端的にいえば、快感とか快楽を越えた、強烈な体験のことを指している。だから単純に快い体験とは言えない。そこには「激しい苦痛」なんかも含まれているからだ。たとえば「快感原則」という言葉、知ってるよね。これは人間が、不安や緊張を解放して楽な方に向かおうという傾向、言い換えるなら、不快を避けて快を求める傾向を指している。ところがラカンによれば、快感原則は享楽を抑制するための規則ということになる。つまり、快感を越えた強烈な体験に向かおうとする傾向を、快感のレヴェルでストップさせてしまおうというわけだ。言ってみれば、麻薬を禁ずるかわりに、お酒で我慢させるようなものかな。もちろん快感原則も、大きく見れば象徴界の掟のひとつだ。ということは、ひとは、象徴界の入り口にある「去勢」の段階を通り抜けたときに、「享楽」を禁じられているわけだね。
 そうはいっても、ひとは「享楽」から自由になることができない。それは、神話的な意味における近親相姦的な快楽、つまり究極の快楽を指すと考えることもできる。これは言い換えるなら、人間が言葉によって切り離された「存在そのもの」と、もういちど完全に合体するような、そのくらい強烈な体験だ。もちろんそれは、不可能な次元の経験ではある。だから単純にそれを追い求めることはできない。でも、ひとの欲望は、どうしたって享楽から多大な影響を受けてしまう。そして、この享楽において、もっとも男女差、つまり「男女の非対称性」がはっきりしてくるのだ。
 ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。それぞれ、「エネルギー」の比喩で簡単に説明しよう。「ファルス的享楽」というのは、無意識的にたくわえられた緊張を、不完全ながら部分的に鎮静化するときに放出されるエネルギーにあたる。このときファルスは、エネルギー放出の水門という役割をになうことになる。まさにこれは「射精」のイメージだね。主に男性の享楽は、こうしたファルス的享楽であるとされる。「剰余享楽」というのは、心のなかに放出されぬまま溜まっているエネルギーにあたる。そして「他者の享楽」。これこそが、究極の享楽だ。すべての緊張が完全に放出されるに至った、理想的な状態を指すのだから(以上はもちろん、ラカン本人の解説じゃない。ごくわかりやすい解釈の一つだ)。
 ラカンによれば、性的な享楽は、すべてファルス的享楽ということになる。そしてこれは、さっきも言ったように、男性的な享楽だ。じゃあ、女性的な享楽はというと、そこにはファルス的な享楽という側面もあるけれど、もう一つの側面、つまり「他者の享楽」という要因も大きいのだという。この「他者の享楽」ばかりは、男性原理ではどうしても理解できない領域だ。どういう種類の享楽かは、あとでちょっとふれる。ただ、俗にも女性のオーガズムの方が男性よりも深くて長いなどという話があるけれど、それはこういう享楽のあり方を指すのかもしれないね。ひとついえることは、男性的な享楽はファルス的な享楽というくらいだから、能動的で、そのおよぶ範囲も限られている。でも他者の享楽は、もっと受け身で、深いレヴェルに届く。そういう違いがあるというべきかな。そしてラカンによれば、女性はそういう享楽を経験はするけれども、それについては何も知らないということになる。
 さて、いささか長すぎる回り道をしてしまったね。そもそも「性関係は存在しない」というラカンの言葉を説明しかけたところだった。これについては、簡単に言ってしまえば、さっき説明した「女性が存在しない」ことが、一つの答えだ。存在しないものと関係を持つことはできない。でもこれじゃ、論理学の証明みたいで、今ひとつ釈然としないだろうね。
 せっかく「享楽」について説明してきたんだから、その方面から説明してみよう。これまでみてきたように、性のもたらす享楽は、男女でまったく異なっている。もちろん、男も女も性関係を求めるだろう。それはいい。でも、このとき両者は、はたして同じものを求めているんだろうか。実はそうじゃない、というのが精神分析の立場だ。そもそも享楽のありようが、男女で完璧にすれ違ってしまっている。そりゃあ現象的には、女は男を求め、男は女を求めているようにみえる。でも、どれだけ求め合って結ばれたにしても、その結合は、本当の結合ではない。それぞれが抱きしめているのは、正しい相手ではなく、相手に投影された幻想だ。だからこの言葉は、もっとわかりやすく「男と女は、本当の意味で関係を持つことができない」と言い換えてもいい。
 そもそもラカンは、人間は性的なレヴェルにおいてすら、本能をなくしてしまった動物と考える。だから性は、完全に象徴的なものでしかない。ヘテロセクシュアル、つまり男女間の異性愛は、別にそれが「正常」で「自然」なわけじゃない。それは、「そういう取り決め」に過ぎないんだね。この考え方はラジカルなようで、むしろ同性愛者やフェティシストなど異性愛向きじゃない人をも、性のもとで平等に考えるという発想につながる。これもラカンの誠実さの一つと言っていいんじゃないだろうか。
 なるほど、セックスをすれば時には妊娠もする。あげくに「愛の結晶」なんてものが生まれてきたりする。僕たちは、そういう体験にこそ「本物の関係」があると信じたがっている。でも、ひとたび精神分析を受け入れるなら、そもそも生殖や繁殖は、性とは何の関係もないことになる。妊娠や出産は、実は象徴界の外で起こる、いわば「現実的」な出来事なんだ。ちょっと受け入れがたく感じるかも知れないね。でも、人間にとって「生殖」が何の関係性も保証してくれないからこそ、いまいろんなところで「家族」の屋台骨がゆるみはじめているんじゃないの? そもそも性関係をひとつの土台として成り立つ「家族」っていうもの自体が、人工的で不自然なものなわけだし。
 そういう発想からすれば、「愛」だって、完全に調和的な男女関係が存在しないことを埋め合わせるための幻想に過ぎないことになる。男性にとっての女性は、実はひとりの主体的な人間ではない。男性は女性の一部しか愛することができない。それは「からだ」だったり「こころ」だったりするけれども、要するに、生きた女性の全体ではなくて、その一部を、幻想的なものとして愛するのだ。このとき女性は「対象a」として、男性の欲望の原因となっている。このあたりのことを、ラカンは「女性は男性の『症状』である」なんて言いかたをしているけど、ここまでつきあってくれたひとなら、もう怒りませんね?
 でもね、そうは言っても、ラカンはやっぱり評判悪いのよ、フェミニスト業界では。私事で悪いけど、僕も上野千鶴子さんに、対談でずいぶんこのことを責められました。要するに、ファルス中心主義(ファロセントリズム)ということですね。これは事実で、それを認めるにはやぶさかではありません。でもね、ラカンをよく読めば、けっして彼が男性のほうがエラいとか優秀だとか考えている訳じゃないことははっきりすると思う。ファルスだって、ペニスそのものじゃないわけだし。それに、ファリック・マザーなんて言葉があるように、ファルスを持つ女性だっているわけだ。男性なんて、しょせんはファルスにすがるしかない、あわれな存在だという言い方だってできる。これに比べれば女性は、けっして解かれることのない「永遠の謎」だ。女性をおとしめるどころか、むしろ崇高なものとみる視点がなければ、こういう発想は出てきようがない。これで判ってもらえたかなあ。ぜひ判ってください。
 さて、ずいぶん具体例も出さずに抽象的な話ばかりしてきたけれど、しめくくりに「実例」をみてみよう。
 男女の非対称性を示す例として、僕がよく挙げるのが、「おたく」と「やおい」の存在だ。解説は不要と思うけど、念のために簡単に説明しておこう。「おたく」というのは、主に成人のアニメファン、ゲームファンを指している。彼らが好きなものを細かく見るなら、ほかにもアイドルとかパソコンとか鉄道とかいろいろあるけれども、そちらはひとまず措くとしよう。アニメやゲーム、つまり本来は子供のための娯楽を、大人になってからも愛好し続けること。さらに言えば、アニメなどに出てくる虚構のキャラクターを性愛の対象にすること。もっと身も蓋もなく言えば、そのキャラクターのイメージで自慰行為ができること、これが僕なりにリサーチした「おたく」のイメージだ(詳しくは『戦闘美少女の精神分析』太田出版)。
 こうした「おたく」のイメージは、「やおい」にも当てはまる。ただし、「おたく」は男に多いから、当然愛好するキャラクターも美少女キャラが多くなる。ところが「やおい」は、ここから先がまるで異なってくるんだね。彼女たち(「やおい」のほとんどは女性だ)は、美少年キャラクターを愛する。「おたく」が美少女を愛するのと一緒だって? いや、問題はここから先だ。「おたく」も「やおい」も、自分が好きな作品のパロディなどを載せた同人誌を作る。両者の趣味嗜好の違いは、この同人誌を見ればはっきりする。「おたく」の性愛イメージは、もちろん愛する美少女と男性キャラの異性愛であり、主にその男性キャラに同一化して、擬似的な恋愛なり性交なりを楽しむというものだ。しかし「やおい」は違う。「やおい」の性愛イメージは、なぜか美青年、あるいは美少年同士の、男性同性愛なのだ。
 びっくりしただろうか。でも「やおい」のことは知らない人でも、いわゆる少女漫画のひとつのジャンルに少年愛ものがあることくらいは知っているよね。僕はあんまり詳しくないんだけど、それでも竹宮恵子『風と木の詩』や萩尾望都『トーマの心臓』といった有名どころはさすがに読んだ。やや新しいところでは吉田秋生『BANANA FISH』なんかも、この系列に入るだろう。少女漫画で、なぜこれほど繰り返し、少年愛が描かれるのか。この謎に対して、十分に納得のいく答えを、僕はまだ知らない。
 この話は、じっくり展開すると大論文になってしまうので、さわりだけにしておこう。詳しく知りたい人は、今度出る予定の『網状言論F改』(共著、太田出版)という本を参照してほしい。で、ざっとした説明をするなら、ここにこそ、男女の享楽の非対称性があらわれていると、僕は考えている。これにもいろんな考え方があるけれど、そのひとつは「享楽の主体をどこにおくか」という問題だ。
 一般的に、男性は自分の立ち位置をしっかり定めてからでないと、何事も享楽できない。アニメの美少女を愛する場合にしたって、自分の立場を投影できる男性キャラがいて、はじめて安心して享楽することが可能になる。これは別に「おたく」に限った話じゃなくて、男性全般にそういう傾向があるね。楽しむにしても仕事するにしても、まず大切なのは自分の立場。けっこう男性諸君は思い当たるんじゃないだろうか。
 いっぽう、女性については、この点はそれほど決定的じゃない。つまり、立場にこだわる女性もいるけれども、そうでもない女性もたくさんいる、ということだ。で、「そうでもない」あり方のきわみが「やおい」だと僕は考える。どういうことだろうか。
 女性一般にそういう傾向があるけれど、とりわけ「やおい」は、「関係性」を重視する。彼女たちは、虚構作品に出てくるキャラクター同士の関係性が、次第に性愛的なものに変化していくダイナミズムを楽しんでいるらしい。このとき、もはや彼女たちは、みずからの立ち位置なんか、どうでも良くなってしまっている。むしろ自分の存在を完璧に消し去れるほど、享楽も大きくなるようなのだ。だから、自分の立場を投影する女性キャラの存在なんて、邪魔なだけだ。そんな「日常」っぽい不純物が紛れ込んだら、享楽の純粋さが汚されてしまうから。
 「おたく」は作品を分析したり、語りたがったりする傾向があるけれど、「やおい」にはそういう傾向はほとんどない。彼女たちは作品を読み、あるいは作ることを本当に「享楽」しているので、それを語ったり分析したりしたがらない。そういう行為は、やはり享楽の完璧さに傷をつけてしまうのだ。
 このようにみていくと、さきほどは説明しきれなかった2種類の「享楽」について、もう少しちゃんと説明できそうだ。男性の享楽、つまり「主体の立場」を定めたうえでの享楽こそが「ファルス的な享楽」なんだ。これに対して、「主体の立場」を完全に抹消してはじめて受け止められる享楽こそが「他者の享楽」じゃあないだろうか。もちろんこれは、僕なりの、独自の解釈だ。でも、そんなに大きく外してはいないと思う。
 「おたく」や「やおい」は虚構を愛しているだけだから、参考にならないって? そりゃ違うよ。性愛がそもそも幻想だって話をしたのは、そういう区別が無意味であることを示すためでもあるんだ。相手が生身の人間だろうと、アニメや漫画のキャラクターであろうと、性愛の構造はまったく同じ。つまり、どちらも幻想の構造を持っているという点ではね。むしろ、生身の恋愛は複雑すぎて、なかなか綺麗に分析できないことが多いんだ。その点、相手が虚構の恋愛は、幻想の構造も比較的シンプルに浮き上がってくる。その意味で、精神分析はもっと「おたく」や「やおい」に注目すべきだと思うんだけどなあ。
 さて、なかなか錯綜した話題になったけれど、これで「性」の話は一段落だ。男女がどんなふうに非対称的な存在であるか、性愛がどれほど人工的な幻想であるか、とりあえずこの点だけは押さえておいてほしい。そんなに理詰めで考えたら、恋愛が楽しめなくなるって? いや、そりゃ嘘だね。性も愛も、どれだけ理屈を重ねても乗り越えられるものじゃない。性愛は幻想には違いないけれど、人間にとっていちばん根源的な幻想なんだ。どれほど理解しても超越できないし、そもそも理解すること自体がむずかしい。だから、むしろこういう理屈を知っていたほうが、性愛もいっそう複雑な陰影を帯びて、より楽しいものになるんじゃないかな。みんなの健闘を祈る。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。