前回はたしか、欲望と言葉の関係を話すって約束したよね。
 えーと、今回は僕の話が、手前勝手な解釈で変なことになっている「俺ラカン」じゃないことを証明するために、ちょっと引用からはじめてみよう。だいたいはラカンの主著『エクリ』って本からだけど、それ以外の本も少し混じってる。今回は「欲望」に関してね。

 欲望は、他者の欲望である。
 欲望の根源は、他者の欲望である。
 男の欲望は、他者の欲望に似せて形作られる。
 人間のあらゆる知は、他者の欲望によって媒介されている。
 人間の欲望の満足は、他者の欲望と働きによって媒介されるほかはないものである。
 人間の欲望は、他者の欲望において意味をもつ。なぜなら、その第一の目的が、他者に よって認識されることであるから。
 他者の欲望の根源にファルスがある。
 ファルスは、他者の欲望の象徴である。

 ちなみにファルスってのは「ペニス」のことです。いやいや、今はなんだかわかんなくてもOK! ここはまあ流し読みしておいてくれればいい。それにしても、なんかやたら、欲望とか他者とかいう言い回しが出てくるね。で、種を明かすと、ここで言うところの「他者」っていうのが、ほぼイコール、「言葉」のことなんだ。
 ここはかなり本質的なところなので、ちょっと丁寧に説明しておかないとね。
 まず精神分析について、考えてみよう。「ブンセキって、なんか患者に連想とかさせて、あといろいろ根ほり葉ほり聞いて、トラウマ掘り出して一丁あがり、みたいな」と思っているキミ。それはあまりに通俗的なイメージに染まりすぎているぞ。というか、キミそれわざと言ってる? ……まあいいや。精神分析は、その過程において、たしかにトラウマ的な記憶を喚起したりする場合もあるが、けっしてそれだけが目的じゃない。トラウマに限らず、言葉にならないもやもやした色んなものが患者を苦しめているとき、それを一緒に協力しあって、なんとか言葉にしていこうという共同作業なんだ。ここでいう「もやもや」には、もちろんトラウマも含まれるけど、もうひとつ、重要なものが「欲望」だ。
 「欲望」が「もやもや」ってどういうことよ? と不思議に思うかもしれないね。自分の欲しいものくらい、自分でわかっている。そう、その通り。でも、ちょっとまって。キミたちは自分が「なぜそれが欲しいのか」をうまく説明できるかな?
 「欲しいものは欲しいんだ、理屈なんかないや」「みんな良いっていうから」「友人の紹介」「10%引きで安かったから」「他社製品よりも薄くて軽いし、速くて正確だし、全体的にさっぱりしているから(なんだそれは)」「抑圧されたペニス羨望だから」……。
 ふむ。約一名ひねくれ者がいるようだが、だいたいそういう説明になるよなあ。説明を放棄するか、他人の欲望をもってくるか、そのものの特徴を語るか。でも実は、特徴を語る人も、つまるところは他人の欲望を持ってきているわけで。スペックの比較って、そういうことでしょう? こういう価値判断の評価って、つまりは欲望のモノサシとして、みんなに共有されているわけです。その典型が「価格」、すなわち貨幣価値ね。こっちはこっちで、ややこしい議論がいっぱいあるわけだけれど。つまり、どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。ということは、要するに、誰にも自分の欲望について、「自分だけの理由」を説明することは不可能、ってことなのか?
 フロイトの天才的だったところは、欲望、つまり価値判断に「性」を持ち込んだところだね。欲望のおおもとにセクシュアリティを想定すれば、欲望のもっとも個人的な理由に接近できる。なぜかって? 人間の欲望の中で「性」が最も個人的なものだからだ。これはいまでも大発見というだけの価値がある。さっき、ペニス羨望がなんたらというひねくれ者がいたでしょう? この説明は、いっけん自己分析として有効にみえるかもしれない。でも、ダメなんだ。このひとがしようとしていることは、自分の性じゃなくて、「一般的な性」を語っているにすぎないから。自己分析が困難、というか不可能なのは、どうしても、何を語っても一般論になってしまうからなんだね。でも、一般論じゃ有効な分析になりにくい。分析のほんとうの「答え」は、必ず治療関係の中で、一回かぎりの個人的なものとして「発見」されなければならないものなんだ。
 ところで、「性」を特権化しようとすると、必ず世界中から、すごい勢いで反対される。フロイトの頃もそうだったし、実は今でもそう。みんなにののしられた精神分析家たちは、「誰でもホントのことを指摘されると腹が立つんですよ。これを『否認』と言って……」なんてえらそうに言い返すものだから、ますます嫌われる。もっとね、戦略的にやらないと……いや、これはずいぶんと脱線しちゃったな。こっちの話はまたいずれ。
 さて、そんなわけで、ほとんどのひとは、自分が何をもとめているかを知らない。それを言葉で語れるようになれればいいな、というのが精神分析家の願いだ。そして、欲望を可能にするものが、言葉であるということ。これも、とても大切な前提だ。でも「前提」であっても、「真実」とは限らないよ。そもそも精神分析家は、そういう押しつけはしない。それなら、精神分析はただの学問だし、分析家はただの学者だ。僕らが「精神分析」とだけ言って、めったに「精神分析学(「学」をゴシックで強調)」と言わないのは、それがある種の前提を共有することではじめて成り立つ技術の体系だから。言い換えるなら、僕たちは精神分析を信じたくない人まで、無理に説得しようとは思っていない。ただ、精神分析が与える、いくつかの前提を受け容れられるひとたちだけと、治療(分析)関係を結び、技術を提供する。そういうことだ。
 ううん、なかなか話が核心にちかづかないな。よし、一気に行こう。
 生まれて間もない赤ん坊は、ママと自分の区別がつかないらしい。この、母子が一体化した満ち足りたひとときが、人間の心の大もとになる、原始のスープみたいなもの。でも、まだここには「人間」はいない。赤ん坊は万能の海の中で、なにも知らずに漂っている。ところが、この混沌とした幸せな世界をかき乱すものがあらわれる。それがパパだ。パパは、赤ん坊とママとの間に割り込んできて、いろいろとジャマをする。このジャマのことを精神分析では「去勢」って言うんだけど、これもいずれ、ゆっくり説明しよう。ジャマされた結果どうなるかというと、子供は「言葉」を獲得するんだ。
 なぜそうなるかって? 言葉がなんのためにあると思う? そう、コミュニケーションのためだ。でも、赤ん坊にとっては、それ以上に大切な意味がある。小さい子はだいたいそうだけど、ママがそばにいないと、不安で泣き出しちゃうでしょう? あれは、「眼にみえないものは存在しない」っていうのが、子供の世界のきまりだから。それがどうして平気になるかっていうと、「ママのかわり」をみつけるから。たとえばライナスの安心毛布が良い例だ。でも、究極の「かわり」は、やっぱり「言葉」なんだね。
 え? 言葉って記号のことかって? ちょっと違う。少なくとも、精神分析的に言えばね。
 記号っていうのは、意味しかないわけ。つまり「意味の代理物」なわけです。ところが言葉はそうじゃない(正確にはシニフィアンとか言うべきところだけど、ややこしくなるから、このままいこう)。言葉は「存在の代理物」なんだな、もともと。母親とか、あとで話すけど「ペニス」とか、人間にとって超大切なもののかわりとして、言葉が生まれたわけだ。
 ちなみに「いないいないばあ」で子供が喜ぶのは、大人がヘンなことをしているのが面白いからではなくて、あれは存在論的にスリリングなんですな。さっきも言ったように、ママが「いないいない」と顔を隠した瞬間、子供は本当にママが消えたように感ずるわけ。これはものすごく不安で不快なことだ。でも、そう感じかけた瞬間にママが「ばあ」と出現するから、赤ん坊はすっかり安心して笑い出す。あれは実に、奥の深いあやし方というべきだ。
 ところで、言葉っていうものは、もちろん自分で作り出すものじゃない。大人からだんだんと学習するものだ。だから、言葉はじぶんの一部じゃない。いうなれば、子供がはじめて出会う、最初の大いなる他者なんだな。だから言葉を学ぶって言うことは、「他者」をじぶんにインストールすることだ。ところで、どうしてこの他者が必要になったかと言えば、それは「存在の代理」としてだった。言葉そのものは当然ながら、実体をもたない空虚な音に過ぎない。そう、他者をインストールするって言うことは、自分の中心に「言葉という空虚」を抱え込むことなんだ。精神分析によれば、この過程は人間が人間になるうえで、どうしても欠かせない必然的な出来事ということになる。よく「人間の欠如した主体」なんて言い回しがあるけれど、要はそういうことだ。で、「欲望」っていうのが、この欠如を埋めたいというところから来ているんだけど……。
 いいところまできたけど、今日はここまでにしよう。でも、ここまで来ると、冒頭のラカンの引用も、なんとなくわかるような気がしてきたでしょう?


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。