この世界に意味なんてない
 じぶん探しに答えなんかない
 こころが癒されました
 生きていて良かった
 こころが傷ついた
 絶望だ、死んでしまいたい、でも
 それはみんなナルシシストのはかない幻想
 そう、たとえそれが「愛」であってもね
 ほんとうに愛されていたのは鏡に写った自分の姿
 でも、ふと気がつくと
 鏡のこちら側には誰もいない

 とまあ、いきなり絶望的なポエムではじめてみたのだが、どうだろう。猛烈に腹が立ったり、ひきこもりたくなったりしただろうか。
 でも、これは僕の考えでも流出した326の本音原稿でもなくて、フランスの精神分析家ラカンの思想を、とりわけその邪悪さを2倍くらい増量してまとめたものだ。このジャック・ラカンという名前、ちょっとくらいは聞き覚えがあると思う。フランスで一番えらい精神分析家、というよりも、ポストモダンの思想家として有名だった人。うーん、そうだな、精神分析を発明したのがフロイト、これは知ってるよね。そのフロイトに影響を受けて、とうとう俺様が一番フロイト師匠のことをよく判っている、俺が一番まともな弟子だ、とか言い始めちゃったひとがラカンだ。
 ところが本人の書いた本とか講義とかの内容が、むちゃくちゃ小難しいうえに、ちょっと判る人にとっては、ものすごくインパクトが大きかった。おかげでフランスでは、ご本尊のフロイト以上にラカンの信者が増えてしまった。信者のことを「ラカニアン」という。ラカニアンには精神分析家だけじゃなく、思想家、哲学者、映画評論家、社会学者なんかがいて、いまでも「ラカンの教えによれば」とか、まるで聖書か何かみたいに良く引用される。まあ、そんなような人だ。
 いまやラカニアンはフランスだけじゃなく、世界中にたくさんいる。ラカンの言葉は、難しいけど曖昧じゃないし、すごく切れ味も良い。おまけに死ぬほどカッコいい。エッセイや論文とかにちょっと引用すると、頭が良くておしゃれな感じでポイント高し。さっそく応用してみよう。そうだな、彼女にふられたら、ためしにこう呟いてみるといい。「女は存在しない」。どう? 癒されること限りなし。おや、ますます絶望したって? 君、ちょっとラカニアンの素質あるかもね。
 さて、この連載で僕は、日本一わかりやすいラカン入門をめざそうと思う。なんでそんなものを目指すのかって? 今までなかったからさ。僕の見たところ、いまの社会は、なんだかラカンの言ったことが、あまりにもベタな感じで現実になってきているような気がする。精神分析そのものには、もう昔ほどの力はないけれど、なにもかも失敗だったと片づけるにはあまりにも惜しい人類の知恵だ。とくにラカンの考えたことは、ラカンが生きた時代よりも、おそらく今のほうがずっとリアルに感じられると思うんだけどな。
 僕はラカニアンを名乗るほど、信者でも勉強家でもないから、むしろ解説役としては悪くないんじゃないかな。そんな、私めがあの偉大なラカン先生の解説だなんておこがましい、なんてちっとも思わないからね。いちおうラカンの限界はどこらへんにあるか、ということも完全に見切っているつもりだし。そういう小難しげな文章が読みたい人は、どうぞ画期的な名著の拙著『文脈病』(青土社)を買ってください。
 ラカンの言ったことは、シンプルといえばすごくシンプル。でも、あまりにもその論理が厳密かつ緻密なので、やけに難しく見えるだけなんだ。ラカンはたとえば、こんなふうに考えた。こころは、言葉だけで出来ている。そして、言葉にはもともと意味などなく、ひとまとまりの音にすぎない。言葉は記号みたいに、直接に何かを示すことはしない。つまり、言葉はものの身代わりじゃない。
 「犬の記号」は犬しか意味しないけど、「犬」という言葉は、犬に直接には結びついていない。「犬」は、「猫」「馬」「牛」といった、他の言葉との関係性のなかだけで成立する言葉だ。極端な言い方をすれば、「犬」以外の言葉が存在しなければ、犬も存在しないということだ。あらゆる言葉は、ほかのすべての言葉とのつながり、ネットワークの中に位置づけられて、はじめて成り立つ。意味を決定づけるのは、その言葉じゃなくて、言葉どうしの関係と、その背景にある「文脈」の作用だ。だから、「犬」という言葉が、動物の犬だけじゃなくて、時には人をののしる言葉や、忠実さのたとえになったりする。
 僕たちはふだん、意味とイメージの世界を生きている。これをラカンは「想像界」と呼ぶ。ところが、意味を生み出すはずの「言葉」は、じつは言葉だけで独自の世界を作っている。こちらは「象徴界」と呼ばれる。このへんの話は、また今度するから、いまは簡単に理解しておいて欲しい。問題は、この言葉だけの世界のほうにある。言葉だけの世界、つまり「象徴界」のメカニズムを、僕たちはじかに知ることができない。だからそれは、「無意識」と呼ばれたりもする。そして、無意識の中での言葉同士の関係が、人間の欲望を生み出したり、あるいは病気の症状をもたらしたりしているのだ。精神分析というのは、こうした、じかには知ることができない無意識のメカニズムを理解するための技術として発見されたわけだね。
 いうまでもないことだけど、言葉には実体がない。つまり、言葉は空虚だ。その空虚な言葉でできあがっている僕たちの心も空虚だ。僕たちが互いに語り合えるのは、言葉を共有しているから。言い換えるなら、おなじ空虚さを共有しているからなのだ。その限りにおいては、言葉は僕たちの社会を支えていると考えることもできる。言葉が社会そのものではないけれど、政治や社会を決定づける僕たちの欲望の、その背後にある存在が言葉である以上、やはり言葉が社会を動かしていると考えるべきだろうね。
 ただ、誤解しないで欲しい。これは「言葉の力を信じましょう」「なんでも話し合いで解決しましょう」といったお題目とは、百万光年くらいかけ離れた意味だからね。ラカンならむしろ、話し合いによる合意の不可能性について、雄弁に語ったはずだ。ちょっと安易なたとえかもしれないけど、ここで僕が言いたいのは、一見話し合いによって動いているようにみえる社会も、実は「無意識の言葉」によって大きな影響をこうむっている、ということ。今回の同時多発テロとかみていると、まさにラカンの正しさが証明されたような感慨すら覚えるくらいだ。
 それでは、人間がどんなふうに、言葉だけの世界に生きるようになったのか。それは人間の乳幼児期についてのラカンの考えから説明する必要があるんだけど、それも次回以降にまわそう。この連載では、僕はラカンを体系立てて説明しようなんて、ぜんぜん考えていないから。気分次第の風まかせで、ごくお気楽にやらせてもらうつもりだ。

 携帯電話の精神分析


 さて、いきなり応用編だ。今回はつかみをかねて、ケータイについて分析してみよう。
 電車の中で携帯電話を使う人間は、いまや世界中で憎悪の対象だ。彼が携帯で喋る姿があまりに素敵なので恋に落ちた、という女性がもし居たら、お目にかかりたいくらいだ。ことほどさように、あらゆる人間にとって、電車内の携帯電話は不快な行為なのである。つまり、嬉しそうに電話を掛けている当人を除いては。これは一体、なぜだろうか。すでにいろんな説明が、あるにはある。

 (1) 周囲の人間を無視している態度が気に入らない。これはダメ。無視というなら、ウォークマンを聴いて漫画を読んでいる人間だって、周囲を無視している。でもまあ、あなたがウォークマンを初めて見た人間でもない限り、あるいはヘッドホンから歌詞まで聴き取れるほど音漏れでもしていない限り、携帯電話ほどの不快は感じないだろう、たぶん。
 (2) たんに傍若無人だから。これもダメ。考えてみて欲しい。二人の若者が大声で話をしている姿と、一人の若者が大声で携帯をかけている姿と、どちらが不愉快か。いうまでもなく後者ですね。傍若無人という程度がほぼ数量的に、というか音量的に同一であるならば、携帯の方が不快指数が高い。これはたんに傍若無人だけでは説明できない。
 (3) 電話というプライヴェートな行為を、人前でするということは、周囲の人間を人間扱いしていないという屈辱感を味あわせるから。なるほど、一理くらいはあるかな。きみはたぶん会田雄次『アーロン収容所』(中公新書)を読んだんだね。イギリス人女性が、日本人捕虜の前で平気で着替えたりするのは、日本人を同じ人間と見なしていないから、という「伝説」ね。僕なんかこのエピソードの演劇性の方が気になるくちなんだけど、まあそれはいいや。
 でも、プライヴェートな行為ということなら、電車内の化粧はどうかな。僕はあれ、言われるほど不愉快じゃない。ちょっと、みっともないとは思うけど、でも携帯ほどには不快感はないな。まして噂に聞く電車内着替えなるものなら、ぜひ一度拝見してみたいと思うくらいだ。

 さて、ここまでで携帯電話の不快に関する解説は出尽くしたわけだけど、ごらんの通り、どれも説明になっていないね。ラカンを援用すれば、こんな問題はすぐに解ける。
 それでは、正解。電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。
 電波系の人、ひらたく言えば精神病の人というのは、僕たちと同じ言葉を喋れなくなった人のことだ。すくなくとも、ラカンはそう考えていたし、僕もそれに条件つきで賛成する。ただし現実には、きみたちが精神病の患者さんと話をしても、ちゃんと普通に会話は成り立つと思う。ラカンが言っていることは、あくまでも理念的な精神病、つまりラカンにとって理想的に狂ってしまった人にだけ、完全に当てはまるだろう。僕が賛成なのは、そういう徹底して厳密に考え抜く姿勢に対してであって、その言葉をそのまま臨床に持ち込もうとは思わない。まあ、当たり前のことだけど。
 精神病の人の言葉は、どんなに表面上は僕たちの言葉に似て見えても、本質的に「違う世界」の言葉なのだ。それが最もはっきり示されるのが、「独語」の症状。まさに本人にとってだけ存在する世界との対話、それが独語だ。だから、たとえ精神病じゃなくても、独り言を呟き続ける人は、どこか僕たちに異様な不快感を与える。同じ世界にいるはずの人が、別の世界を背負って歩いているようなものだからね。
 携帯電話もまったく同じこと。ここではない違う世界と電波で交信しているという点では、携帯人間も精神病患者も本質的に変わらない。いや、もし精神病であることがはっきりしているなら、いずれ独語にも慣れることができるだろうけど、携帯電話はそうはいかない。僕たちは、異常な人間の異常な振る舞いには適応できるけど、普通の人間の異常な振る舞いには、なかなか慣れることが出来ないものなんだ。
 ……とまあ、ラカンの切れ味というのは、ざっとこんなものだ。僕が思うに、今の社会には、ラカンじゃなければ解けないことがあまりにも多い。なるほど、ラカンの言葉は、たしかに悲観的でニヒリスティックに響く時もある。でも、幻想に取り込まれずにものを考える出発点としては、けっして悪くない。癒しも幻想だけど、絶望はもっと幻想だ。もちろん幻想が好きな人には、余計なおせっかいするつもりなんかない。寝ていたい人は寝かせといてあげよう。でも、僕は覚醒していたい。幻想と現実がどんどん接近しているようにみえるこの世界で、できるだけリアルに生き延びたい。そのためにも僕たちには、いまこそ「ラカン」が必要なのだ。


斎藤環(さいとうたまき)
1961年生まれ。爽風会佐々木病院医師。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)などがある。